「ありがとう」

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カセットテープに貼られているラベルは黄ばんでいた。 そのラベルには何も書かれていなかった。 そもそも、俺はカセットテープを使った事などありはしない。 自分で音楽を聴き始めたのは小学校高学年の頃だったと思うが、その頃はCDやMDだった。 中学や高校、そして大学に進学する頃はiPodやスマホで音楽を聴いていたからカセットテープなど使ったことなど無い。 これまでカセットテープを目にしたのも昭和を回顧(かいこ)するテレビ番組の中くらいなものだ。 とは言っても、このカセットテープに一体何が録音されているのかが気になってしまう。 こんな古びた埃臭いカセットテープに興味を抱いてしまうのは、眠る暇すら惜しまれるような多忙極まりない生活が、引っ越しの準備をするくらいしかない気の抜けたようなものと変わってしまって、ひたすらに空しい気持ちを抱いていたからかもしれない。 しかし、いざ聞こうと思っても、俺はカセットテープを再生できるプレーヤーなんて持っていやしない。 引っ越しの荷造りにも飽きつつあった頃合(ころあ)いだったので、休憩とばかりにスマホを取り出し、ネットで色々と調べてみる。 近所にリサイクルショップがあることが分かったので、そこにプレーヤーが無いか探しに行ってみることにした。 三十分後、俺はリサイクルショップで手に入れた小型の古ぼけたプレーヤーにカセットテープを押し込んでいた。 カセットテープをセットし、プレーヤーの蓋を閉める。 カシャンという小さな金属音が響く。 仰々(ぎょうぎょう)しい再生ボタンを力を込めて押し込む。 ザーッという微かな雑音が流れた後、カセットテープはその録音テープから音声を再生し始めた。 プレーヤーのスピーカーから流れてきたのは、同じ言葉の繰り返しだった。 「おめでとう」という言葉の繰り返しだった。 その声の主は、おそらくは若い男性なのだろう。 「おめでとう」という言葉の後にしばらくの沈黙が流れる。 そして、スピーカーは再び「おめでとう」という言葉を吐き出す。 延々とその繰り返しだった。 何だよ、これ?と思った。 昔に流行った音楽でも流れ出てくるかと予想していただけに拍子抜けな思いだった。 また、同じ言葉が延々と繰り返されることは何とも不気味に思えてしまった。 けれども、俺は何時しか「おめでとう」というその言葉に聴き入っていた。 その声の調子に、どこかしら暖かさや懐かしさを感じたからかもしれない。 職も人間関係も失ってしまった俺にとって、「おめでとう」という言葉など皮肉そのものでしかなかったけれども。 それ以来、俺は荷造りの合間などにプレーヤーを再生し、繰り返される「おめでとう」という言葉を聴くようになっていた。 退職してからというもの、俺が耳にする、あるいはメッセージにて受け取る他人の言葉は、俺の気持ちを傷付けるものばかりだった。 それに対してスピーカーから淡々と流れ出る「おめでとう」という言葉は、俺の気持ちを傷付ける恐れなんて全く無かった。 だから、やや不気味に感じながらも、ついついプレーヤーの再生ボタンを押して、「おめでとう」の言葉を聴き続けていた。
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