「ありがとう」

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幾度と無く聞いているうちに、「おめでとう」というその言葉は、若い男性のものだけではなく、色々な人が発しているように思えてきた。 それは女性のものだったり、老いた男性の声だったり、あるいは子供の声だったりするようにも感じられた。 薄気味悪いなとも思ったが、きっと二十年とか三十年前の古いカセットテープなのだから、何度も聞いているうちに録音テープの劣化が進んでしまい、再生される音の調子が狂ってきてしまったのだろうと考えることにした。 スマホでやり取りするような相手も居なくなり、時間を持て余し気味だった俺がテープを聴く頻度は次第に増えていった。 ある夜のこと。 眠りに就く前にプレーヤーを再生し、様々な声で発せられるかのような「おめでとう」という声をぼんやりと聴いているうちに、俺の頭にこんな考えが浮かび始めていた。 俺がこれまで「おめでとう」と言われたのっていつだったかな、と。 それは小学校の入学式の時だったかもしれないし、運動会のかけっこで一番になった時だったかもしれない。 中学校の時に模擬試験で地域のトップを取った時だったかもしれない。 高校入試にトップで合格した時だったかもしれないし、好きになった女の子に交際を申し込み、それが受け入れられた時だったかもしれない。 難関と言われる大学に合格した時だったかもしれないし、大学のサークルで企画した大型のイベントを無事に成功させた時だったかもしれない。 凄まじい倍率を勝ち抜いて広告代理店に入社できた時だったかもしれないし、成績が課でトップとなって新人ながら社長賞を授与された時だったかもしれない。 いろんな場面で「おめでとう」と言われたような気はする。 でも、はっきりとは覚えていない、 その時、誰が俺に「おめでとう」と言ってくれたんだろうとの疑問もまた浮かび上がってくる。 でも、一体誰が俺にその言葉を掛けてくれたのか憶えてなどいなかった。 そして、こんな思いもまた俺の心の中に浮かび上がってきた。 その時、俺はその「おめでとう」に対して、何か言葉を返したのだろうかとの思いが。 様々な疑問、そして色んな思いを抱きつつ、俺はいつしか眠りに落ちていた。
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