「ありがとう」

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夢を見た。 いろんな人が俺に「おめでとう」と声を掛けてくれる夢だった。 いろんな場面で、いろんな人が俺に向けて「おめでとう」と声を掛けてくれた。 そして、夢の中の俺は、そのことを当たり前だと思っていた。 みんなが俺を祝福するのは当然のことだと思っていた。 俺は頭が良かったし運動も出来た。 周りのみんなを仕切ることも得意だった。 みんなの人気者だったし、どんな場面でだって注目を集めていた。 俺が成功するのはいつものことなんだ。 他人が俺を讃えるのは当たり前のことなんだ。 だから、俺は別に言葉を返さない。 「おめでとう」と言葉を掛けてくれる誰かに対し、別に言葉を返さない。 だって、それは当然のことだから。 俺が周囲の人から注目され、賞賛の言葉を浴びるのは当然のことだから。 自分に言い聞かせるかのようにして、俺はそんな思いを巡らせる。 夢の中にて、俺はふと気が付く。 目の前にいつものプレーヤーがあった。 俺はプレーヤーへと手を伸ばし、力を込めて再生ボタンを押す。 いつものようにザーッという微かな雑音が流れた後、スピーカーは音を吐き出し始める。 「おめでとう」という声が響く。 年老いた女性の声だった。 暖かくて、そして懐かしい声だった。 俺は思い出す。 これって、おばあちゃんの声だ。 これは、俺が小学校に入学した日に、おばあちゃんが掛けてくれた声だった。 正門の前にてみんなで記念撮影した時、おばあちゃんが俺の頭を撫でながら掛けてくれた声だった。 おばあちゃんの様々な面影が脳裏を過ぎる。 もう十年以上も前に亡くなってしまったおばあちゃんの様々な面影が。 知らず知らずのうちに、俺の口から言葉がこぼれ出していた。 「ありがとう」と。 またも「おめでとう」という声が響く。 男の子の声だった。 俺の頭の中で思い出が瞬時に蘇る。 これは、小学二年の頃、同じクラスだった祐二(ゆうじ)の声だ。 俺は小学一年の運動会のかけっこで一番を取れなかった。 ゴール直前で転んでしまったためだった。 それが悔しくて、小学二年の運動会の前には、放課後に校庭で練習してたっけ。 そして、祐二(ゆうじ)はそんな俺に付き合ってくれていた。 念願叶ってダントツで一番になった俺に、祐二(ゆうじ)はつっかえ気味に「おめでとう」と声を掛けてくれたんだっけ。 でも俺は、その時、何も言葉を返さなかったんだよな。 俺ってホントは凄いじゃんと自慢げな思いで心が一杯だったから。 知らず知らずのうちに、俺の口から言葉がこぼれ出していた。 「ありがとう」と。 スピーカーからは次々と「おめでとう」の言葉が流れ出してくる。 様々な人が発する「おめでとう」という言葉が。 その「おめでとう」の言葉を耳にした俺の脳裏に、その時の情景や、その言葉を掛けてくれた人のことが次々と浮かび上がってくる。 その時の嬉しさが俺の心の中に湧き上がってくる。 そして、俺は知らず知らずのうちに「ありがとう」と口にする。 それを繰り返しているうちに、俺の心の中に後悔が芽生え始めていた。 芽生えた後悔は、俺の心の中にじわじわと枝葉を拡げつつあった。 俺の頭の中に考えが()ぎる。 今までたくさんの人が俺に「おめでとう」と声を掛けてくれた。 俺を祝福してくれた。 俺の心を暖めようとしてくれた。 でも俺は、俺はいつだって、それが当然のことだと思ってきた。 当たり前のことだと思ってきた。 俺だけの力でそれらを為してきたと思っていたから。 俺が凄いから成功してきたんだと思っていたから。 でも、決してそうじゃない。 決して、そうじゃなかった いつしか俺の心は後悔で満ち満ちていた。 「おめでとう」という声が響く。 女性の声だ。 そう、これは高校の時に付き合っていた律子の声だ。 東京の大学に合格したことを告げた時に彼女が掛けてくれた「おめでとう」だ。 卒業式が終わった後、俺達以外は誰も居ない、ガランとした教室の中で律子が掛けてくれた言葉だ。 そう言えば、あの時、律子は涙で目を潤ませていたな。 何故って? それは、俺が進学のために東京に行ってしまったら、彼女と別れてしまうことが分かっていたから。 女性に人気のある俺が東京に行こうものなら、地元に残った律子のことなんてどうでも良くなってしまい、そして他の女性と付き合い始めるであろうことが彼女には分かり切っていたから。 でも、彼女はそんな俺に言葉を掛けてくれた。 「おめでとう」と。 あの時、彼女は一体どんな気持ちでこの言葉を口にしたのだろうか? 俺の目からは何時しか涙が零れ落ちていた。 そして、「ありがとう」と口にする。 声を絞り出すかのようにして。 感謝の気持ちを、そして後悔の気持ちとを込めて。 俺は、ひどい人間だったと思う。 誰かが「おめでとう」という言葉を掛けてくれたとき、その相手のことを考えることなど全くなかった。 いつも、自分のことしか考えていなかった。 「おめでとう。」という声が響く。 男性の声だ。 これは、課長の声だ。 それは、俺がまだ入社して間もない頃のことだった。 初めてのプレゼンを上手くやり遂げた時、まだ係長だった頃の彼が掛けてくれた声だった。 思い出してみれば、最初のプレゼンの時って課長が色々と教えてくれたっけな。 資料の作り方から原稿の読み方、そして効果的なジェスチャーの交え方まで色んなことを教えてもらったものだった。 でも、周りからの賞賛の声に酔い痴れていた俺は、その成功が自分の才によるものだと思ってたんだよな。 今にして思い知らされる。 俺は、何という傲慢な人間だったんだ、と。 俺の口から「ありがとう」という言葉が迸り出る。 感謝の念、そして痛切な後悔の念を纏って。 俺が成長していく中で掛けられた幾多の「おめでとう」という言葉 その言葉の影には、いろんな人の助けがあったはずなんだ。 俺へのいろんな思いを抱いて、その人は「おめでとう」と声を掛けてくれたはずなんだ。 繰り返し流れる「おめでとう」の声。 俺の脳裏に浮かぶ、その言葉を俺に掛けてくれた誰かの面影。 そして、その人が俺に為してくれたであろう様々なこと。 それを思い浮かべながら、俺は口にする。 「ありがとう」という言葉を。 感謝とともに。 後悔とともに。 そして、(すす)り泣きとともに。 (すす)り泣きながら、俺は「ありがとう」と口にし続ける。
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