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話を聞き終わったカガリは、スンと鼻を鳴らした。そして私の手からタオルを引き抜くと、自分の手で目元の涙を拭う。
――あの、甘えん坊のカガリが。1人では何もできない子として生きてきたカガリが……ほんの少し話しただけで、目覚ましい成長だと思う。きっと今までは機会を与えられずに、どうしようもなかっただけ。意外とやればできる子なのかも知れない。
「ねえカガリ、もう平気よね? 私、本当にあの家には居たくないのよ……どうしても結婚したいの。だから母さんを説得してくれないかしら、「同意書にサインしてあげて」って」
「……どーいしょ?」
「母さんか父さん、どっちでも良いんだけど――サインしてくれなきゃ結婚できないから、今すごく困っているの。母さんったら、私のことが目障りで仕方ないくせに「カガリが泣くから一生家に居なさい」なんて言うのよ、おかしいでしょう? あなたの言うことしか聞かない気がする、これはカガリにしかできないことよ」
「私にしか、できない――それって、お姉ちゃんでも無理なの? 皆が大好きなお姉ちゃんでも?」
可愛らしく小首を傾げるカガリ。彼女の表情、大きな瞳には優越の色が見え隠れしている。
自分1人の問題ではないのに、いちいち姉と比較されて、「恥ずかしい」なんて揶揄されて、一体どれほどのフラストレーションを抱えているか。
その気持ちは――どれだけ必死になっても空回りしてばかりで、実の両親から認めてもらえなかった――私にもよく分かる。
それに、まだ8歳とはいえしっかりと『女』だ。「カガリが一番」という教育のもと育っているし、優劣の物差しには敏感なのだろう。
「ええ、無理よ。私には……逆立ちしたって無理、お手上げだわ」
「……えへへ、そうだよね~?」
潔く負けを認めれば、カガリはニンマリと勝ち誇ったような笑みを浮かべた。つい先ほどまでウジウジと悩んでいたくせに、現金な子だ。もしかすると彼女も商人に向いているかも知れない。
――何はともあれ、この子の説得は上手く行ったと思って良いのだろうか。母の説得はカガリに任せて、私は新たな場所でなんの憂いもなく暮らしたい。
今日は朝から疲れっ放しだ。さっさと仕事を終わらせて家に帰りたいし、散々迷惑をかけている商会長夫妻にもきちんと謝罪したい。あの人たちと母の話し合いがどうなっているのかも気になる。
そっと息を吐き出す。するとカガリは、どこか彼女らしくない笑みを浮かべた。まるで、他人の下世話な噂話をして盛り上がる先輩職員のような――なんとも意地の悪い表情だ。
元々すぐに癇癪を起こす悪癖はあったけれど、基本的にはニコニコ笑う可愛らしい顔か、泣きべそをかいている顔しか見たことがないのに。こんな顔は初めて見る。
「やっぱり、「なんでもできる」なんて嘘だよね。ママの言った通りだった、お姉ちゃんはすごくもなんともない」
「……カガリ?」
「お姉ちゃんは私と違って普通の人なんでしょう? 特別すごいことをやっている訳じゃなくて、ただ人に取り入るのが上手いだけ。勉強も普通、仕事も普通、人付き合いも普通――それに顔も普通で、可愛くないもんね? 外の皆が「なんでもできてすごい」って言うから、私までそういう目で見ちゃってた」
カガリは「もちろん私はお姉ちゃんが大好きよ? でも、皆の言うことはちょっと変だと思う……だって私の方がすごいし、美人に生まれたから」と肩を竦める。
私はゆっくりと目を瞬かせて、言葉をかみ砕いた。頭の芯が静かに冷えて行くのを感じた。
言っていることはともかくとして、ぷくりと片頬を膨らませた彼女はやはり可愛らしい。私が逆立ちしても無理なのは、彼女の生まれもった美しさに対抗することだってそうだろう。
たぶん、妹と――家族と向き合うのが遅すぎたのだ。
私が家に帰りたくないからと残業ばかりしている間に、おかしなことになっていたのかも知れない。きっと母は、家で私の悪口を垂れ流しているのだろう。私の価値を下げることで、相対的にカガリの価値を高めたのだ。
わざわざそんなことをしなくたって、カガリは十分素晴らしい子だっただろうに――。
子は親を見て育つのだ。閉じられた世界で日常的に母親が人をこき下ろす姿を見ていたら、それが悪いことだと気付けなくなる。だから今彼女は、自分がどれだけ酷いことを言っているのか理解できていない。
――いや、本当に理解できていないのだろうか? 全て明確に、正しく理解した上で私をこき下ろしているとしたら?
「カガリ――」
姉として諫めようと思った。彼女の将来を想えば注意して当然だ。けれど、すぐさま無駄だと踏みとどまる。
もう、可愛い妹ではないのではないか? やはりこれは、母の作品なのではないか。
それに、決して間違ったことは言っていなかった。事実私は優れていないし、よくて『普通』だ。もしここで彼女を諫めたら、なんだか変な空気にならないだろうか? 可愛らしい妹に、両親の愛を一身に受ける妹に、これでもかと嫉妬している醜女にならないか?
せめて黙って飲み込んで受け入れて、少しでも懐が広いところを見せた方がプラスだろう。……プラス? 本当に?
自問自答しながら口を噤めば、カガリはますます嬉しそうに笑った。わざわざ言葉にせずとも、その顔にはハッキリと「やっぱり私の勝ちね」と書いてある。
今まで家族のために動いていたことも、話したことも、時間を割いたことも、何もかもが無駄になった気がした。私はいつまで、一体どこまで空回れば気が済むのだろうか。どうしてこんなに不器用で、要領が悪いのだろうか――。
不思議と涙は出なかったけれど、足元が崩れるような感覚を味わった。体のどこかが痛むのは分かったけれど、それがどこなのかも分からない。
「おい、いい加減にしろ、不細工」
――不意にすぐ傍から低い声が聞こえて、私は一瞬誰が喋ったのか分からなかった。まず、彼が同席していたことをすっかり忘れていたのだ。
「ゴ、ゴードン?」
「……………………は? え……? 嘘、カガ――私に言ってる? それ……」
「他に不細工は居ないだろう。鈍い上に頭まで悪い……それでもセラスの妹なのか? ――ああ、いずれ俺の義妹にもなるのか、それは恥ずかしいな」
「ちょ、ちょっと、何? どうしたのよゴードン、あなたらしくないわよ……!」
私が引き留めるのも構わず、ゴードンはなんの臆面もなく「悪い、あまりにブスだから黙っていられなかった」と答えた。顔を真っ赤にしたカガリが「ぶっ、ブスじゃないもん!?」と怒鳴り散らすのは、当然のことだった。
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