第1章

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 ――私の少女時代は、それなりの幸せで満たされていた。  父は広大な土地をもつ豪農の家系に生まれた五男。家業は上の兄たちが引き継ぐからと、末の父は自由な生活を許された。例えば新たな商売を始めたいと口にした場合、実家から莫大な援助を受けられるくらいには恵まれた家系だったらしい。  しかし私の父は、大金を前にすると怖気(おじけ)づいてしまうほど気が弱い。堅実に細々と、自由気ままに日銭を稼いで暮らすのが性に合っているらしく、起業するなどもってのほかだった。  父は20歳を迎えると実家を離れて、街の商家へ奉公に出た。勤め先の店が加入する、大商会の事務員として働いていたのが私の母だ。母は、商会を取りまとめる責任者の縁戚(えんせき)だった。  身内のコネで就職と言えば聞こえが悪いけれど、信用第一の商売仕事なんてものは身内で脇を固めていなければ、やっていられないとのこと。過去売り上げの持ち逃げや、帳簿を誤魔化す粉飾決算(ふんしょくけっさん)など、色々と痛い目を見た末の措置(そち)らしい。  父は店の下働きだったので、何かにつけて商会までお遣いを頼まれていたそうだ。そうして訪れた商会の受付で同い年の母と出会い、何度も顔を合わせるうちに互いの想いを通わせた。  結婚したのは23歳の時。そして、私が生まれたのはその2年後だ。  母によく似ていたお陰で、私は父から猫かわいがりされて育った。特別美人に生まれた訳ではないけれど、幼い頃は親の愛さえあれば他には何も要らなかった。  もちろん母も私を可愛がってくれていた。とは言え、父に似て生まれていた方が――と、ため息交じりに言われたことが何度かあった。  母は良くも悪くも普通の女性だ。ただ、父は目鼻立ちのはっきりした顔をしている。そんな父と結婚した『勝ち組』の母は、よく近所や職場の女性から嫉妬混じりに冷笑(れいしょう)されていた。「あら~、娘は父親に似るって言うのにねえ~?」なんて、暗に母に似た平凡な娘が生まれて残念だったな――と。  当時5歳の幼い私には、意味など分からなかった。しかし今となっては、随分失礼なことを言われていたものだと理解できる。  記憶の中の母は、いつも苦く笑って耐えていた。まるでフォローするように私と目線を合わせては、「お父さんとセラスが居るから、幸せだわ」と微笑んだ。  そうして耐える母を見て育ったせいか、私はやたらと物分りの良い子供だったと思う。構って欲しいとワガママを言って親を困らせるなど、言語道断。そもそも、そんなことをしなくたって両親は私を愛してくれた。  何せ父は、ただ生きているだけで私を褒めそやしてくれた。母もたまに複雑そうな顔をするけれど、私のことを可愛がってくれた。  それに近所や職場で母を笑い者にしていた人々も、5歳の私がしっかりしている姿を見せれば、いとも簡単に口を閉じた。なかなか子宝に恵まれない商会のトップから、私が可愛がられていたのも大きかったのだろう。  気付けば女性たちは、「賢い子が生まれて良かったじゃない」「さすが2人の娘ね」「商会の看板娘になれるかもよ」なんて手の平を返したのだ。  私さえしっかりしていれば、母は誰にも揶揄(やゆ)されない。それを理解してからは、殊更大人びた。子供らしさなんて必要ない。泣いて物事を動かそうなんて考えたって無駄だ。両親も商会の人間も、私が年不相応にませればませるほど喜んだ。  やがて母は私の頭を撫でて、優しく微笑みながら「ありがとう」と言うようになった。少し前までの複雑な表情は鳴りを潜めて、私が周りから褒められるのが嬉しい、鼻が高い――と。  私はますます得意になって、母を悪者から守るようなつもりで毅然(きぜん)とした態度を貫き通した。  ――母が夜な夜な「娘に守られてばかりで情けない」「セラスが全く甘えてくれない」「母親として立つ瀬がない」と父に泣きついていたことを知ったのは、10年以上後のことだった。
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