第1章

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 母の腹は順調に膨らんで、私が15歳になる頃には臨月を迎えていた。もういつ生まれてもおかしくないだろう。私は毎日ソワソワしながら、眠る前に母の腹を撫でた。  両親はとても幸せそうで、私を妊娠していた時もこれくらい慈愛に満ちた表情を浮かべていたのかと思うと、何やらくすぐったかった。 「セラスは大人になったら、何になりたいんだ?」 「大人になったら? そうねえ……ゴードンは、問答無用で商会を引き継ぐんだものね」  10歳になったゴードンは、相変わらず私を傍に置いていた。宿題を見ないと不機嫌になるし、自宅で1人ご飯を食べようものなら不貞腐れる。  遅ればせながら、彼が入浴を嫌がったのは同じ学校のませた友人から「お前、セラス姉ちゃんの裸見てるんだろ? どんなのか教えろよー!」と、揶揄されたからだと知った。  それがよほど恥ずかしかったのか、上手く嘘をつけないゴードンは「セラスと一緒に風呂なんて入らないから、分からない」という状況を作りたかったらしい。  その『恥ずかしい』が裸云々ではなく、大して美人でもない私との関係を友人に邪推されたから――ではないことを祈るばかりだ。そうして後ろ向きの考えに浸るほど、この頃の私は自信がなかった。容姿に関する嫌な出来事が、それだけ多かったのだ。 「私、学校の先生になりたいのよ。学校じゃなくてもいいわ、保育所でも、教会でも、子供が居る場所ならどこでも」 「先生か――確かにセラスは人にモノを教えるのが上手いから、向いていると思うけど……」 「ふふ、ありがとう。でも誰にも言わないでよ、試験に落ちたら恥ずかしいもの」  まだ両親には話していない夢物語だが、学校の成績は悪くなかった。資格だって必死に勉強すれば取れるはずだ。たいして給与が良い訳ではないけれど、子供と接するのが何よりも好きな私にとっては、天職のように思えた。  それもこれも、10歳になってもいまだに勉強を教えろと要請してくる幼馴染のお陰かも知れない。このカルガモは子供の愛らしさだけでなく、子供に何かを教える喜びまで教えてくれたのだ。 「先生の勉強、してるのか? もう?」 「こっそりね」 「そうか……俺は勝手に、セラスはずっと商会に居るんだと思ってた」 「子守として?」  それはそれでやり甲斐があるとは言え、やはり母だけでなく娘の私までコネで就職するのは(はばか)られた。決して母を非難する訳ではなく、自分の力で教員になって、自分の力で生きていきたいのだ。恐らくこういう我の強いところが「可愛げがない」と言われる所以(ゆえん)なのだろう。 「子守も良いけど、セラスは勉強ができるから……受付や事務員どころか、その……け、経理を任せられるだろ?」  ゴードンの言葉に、私は思いきり噴き出した。そのまま声を上げて笑えば、彼は耳まで赤くして顔を背けている。  あの商会には代々、『経理』は商会長の()()が担う、というしきたりがあるのだ。だから現商会長の妻――ゴードンの母が、経理として働いている。  一人息子のゴードンは次期商会長だ。彼を出産する際に衰弱して死にかけた母親は、もう妊娠は二度と考えられないと言っていた。その彼が経理を任せたいと言う意味を理解できぬほど、私は愚鈍ではない。 「生意気なカルガモめ、一丁前にプロポーズしたつもり? 私のあとを追いかけるのを辞めてからにしなさいよ」 「カルガモじゃない! それに、ぷ、プロポーズなんか、セラスにする訳ないだろ!? ただ、俺が商会長になった時には古いしきたりをなくして、賢いヤツを経理にすれば良いと思ってるだけだ!」  真っ赤な顔でしどろもどろになりながら弁明する幼馴染を見て、私はハイハイと頷いた。  実は商会長夫妻が、前々から私とゴードンの結婚を望んでいることは知っていた。ただ直接打診があった訳ではなくて、両親に対して「うちの息子はセラスを気に入ってるし、どうかと思って――」なんて冗談交じりに言っているだけだ。  ゴードンが私を気に入っているなんて、そんなもの当然のことなのに。姉弟のように育ったし、彼はまだ幼いから女性の()()が分かっていないだけ。近場に居る私に固執しているだけなのだ。仕事ができる賢い女性が良いのではない、意思表示ができる女性が良いのでもない。  世間的にはただ美しくて、愛嬌があって、なんでも許してくれるほど大きな度量をもつ女性が良いのだ。  いつか彼も、その()()に気付く日が来る。そうなったらもう二度と私を経理になんて言わないだろう。 「賢いと言ってもらえて嬉しかったけれど、今の話は聞かなかったことにするわね」 「――聞かなかったことに? な、なんでだよ!」  あれだけプロポーズではないと喚いたくせに不貞腐れるのだから、本当に難しい。私は苦く笑って続けた。 「まあ、もし20歳過ぎてもまだ私を経理にしたいんだったら、その時はまともなプロポーズしなさいよね。今みたいな言い方したら、絶対に頷かないわよ」 「い、言ったな!? 俺は記憶力が良いんだ、絶対に忘れないからな! ――あ! いや! 契約書をつくろう! 羊皮紙もってくる!」 「ちょっと、ゴードン! あれ1枚いくらすると思ってるのよ、ダメに決まってるでしょ!」  いずれは離れていくにしても、今はまだ傍に居たい。誰よりも、両親よりも私を過大評価してくれる――平凡な私をちょっと特別な女にしてくれる、幼馴染の傍に。
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