第1章

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 そうこうしていると、家の玄関が勢いよく開いた。ドタドタと足音を立てて帰って来たのは、残業を終えた父だ。父は涙を流す母と立ち尽くす私の姿を認めると、まるで苦虫を噛み潰したような顔をした。 「ああ――お前、もしかして何か言ったんじゃないだろうな? セラス本人に当たったのか!?」  帰ってくるなり、父は大声を上げた。「残業でなかなか帰れなかった俺も悪いが、娘に八つ当たりするヤツがあるか! 愚痴なら俺に言えばいいものを!」という言葉から察するに――どうも、母がこうして不安で泣くのは一度や二度じゃないらしかった。  恐らくいつもは、私がゴードンの家から戻ってくるまでに父が宥めすかしていたのだろう。それが今日はたまたま残業で帰れず、母を慰めるのが間に合わなかったのだ。 「だって――」 「言い訳は辞めろ! いいか? ()()は君の心の問題だ、セラスが甘える甘えないは一切関係ないじゃないか! そんな調子でどうするんだよ、「今度こそ」と言うくらいならしっかりしないと――!」 「ま、待って、父さん。私が悪かったの、私が悪いから、母さんを責めないで……ストレスがお腹の子に響くかも知れないでしょう」  本音を言えば、両親の争いを目の当たりにしてストレスを感じていたのは、他でもない私自身だった。父を宥めながら母を盗み見れば、悔しげな顔をしてこちらをねめつけている。  本当に何を言っても逆効果だ。どうせ「責めずに庇うのが気に入らない」「父を宥めるのが気に入らない」とでも思っているのだろう。いっそオギャーと泣き叫べば溜飲(りゅういん)を下げたのかも知れない。  父は同情するように私の肩を叩くと、「本当にすまない」と言って息を吐き出した。 「……母さんはちょっと、疲れているんだ。妊娠していると精神が不安定になりやすいし――」 「えっと……でも、ほら。たぶん昔から周りに、私のことで色々と言われていたのよね? じゃあ、私も全くの無関係じゃないし……」 「セラスがそんなことを気にする必要はないよ。ただ、母さんはこの通り……子育てに不安があるようだから。子供が生まれたら、手伝ってやって欲しい」 「え、ええ、それは、もちろん。家族だもの」  無理やり笑みを浮かべれば、父は安堵したようだった。まあ、これから子供が生まれると言う時に、母子が仲違いして家庭崩壊したらとんでもないことだ。今まで私に気取られぬよう母を宥めていたらしい父に、感謝すべきか――それとも、もっと早く教えて欲しかったと責めるべきか。 「セラスの時は、母さんも仕事に追われて忙しかっただろう? だから自然と、自立するのが早かったんだ。でも今回はセラスも手伝ってくれるし……皆で甘やかせば、()()()()()()()になるさ。だからお前も安心しろ」  母を明るく励ます父の言葉を聞いて、私を庇っていながら、結局は父も私の性格について思うところがあるのだと察した。今まで正しいと信じて疑わなかったものが間違っていたことに、まるで足元が崩れるような思いだった。  ただ、とにもかくにも両親の言い争いは収まった。新しく生まれてくる子の世話は、最初からするつもりだったし……なんの問題もない。今までと何も変わらない。――ほんの少しだけ、両親と今後どう接すればいいか分からなくなっただけだ。  母は二度と私を許さないかも知れない。私もまた、母を真っ直ぐに愛せる自信がない。父のことだって手放しに信用できるのかどうか――何せ父は、母が泣いていたことを何年も隠していたのだから。 「えっと……ごめんなさい、もう寝るわね。明日はゴードンと商会を見学する日だから――」  そう言って部屋に逃げ帰ろうとしたところ、母がハッと弾かれるように顔を上げた。そうして口にしたのは、思いもよらない言葉だった。 「そうだわ――セラスが私の代わりに、商会で働けば良いのよ!」 「え……」 「は? いきなり何を言い出すんだ、セラスはまだ勉強が――」  街の初等科学校は7歳から12歳まで。高等科学校は13歳から18歳まで。  私は高等科には通わずに、商会の人に教材を貰って読み書きや算術の勉強をしながら、預け先のない子供たちの面倒を見ていた。だから学校を辞める辞めないの話にはならない。ただ、18歳までは好きなだけ勉強しながら働けば良いと言われていた。約束まであと3年ある。 「だって、あなたもさっき言ったじゃない! 仕事が忙しくて満足に構えないと、またセラスみたいになるわ! 子供には母親が必要なの、セラスの基準で厳しく育てられたらどうなるか!」 「お、おい、そんな言い方――」 「商会なら慣れ親しんでいるから平気よね? 別にこれと言ってやりたい仕事もないようだし、今まで勉強したことは商会の仕事に役立つはずよ。お母さんのためにやってくれるでしょう? だってセラスは、()()()だものね!」  この時の母の目は血走っていて、数秒先には何をしでかすか分からない感じが、とても恐ろしかった。助けを求めるために見た父は複雑そうな表情のまま、何も言わずにただ小さく何度も頷いた。まるで、「言う通りに頷いておけ」と私の背中を押すように。  働く母のサポートができればとは思っていたけれど、まさかここまで全面的にサポートさせられるとは思ってもみなかった。教員になる夢、あと3年できたはずの勉強。母と入れ替わりで働くことによる、周囲の目。生まれてくる子ども、私と家族のこれから。 「あ……うん……分かった、明日商会長と話すわ」  色々なことを考えた。けれど優しかった母を、気弱で穏やかだった父をここまで追い詰めてしまったことに――何も気付けなかったことに大きな罪悪感を覚えて、私は頷くことしかできなかった。  しかし、言う通りに頷いたところで、母は表情を険しくするばかりだった。きっと母が求める返答は、またしてもこれではなかったのだ。  それでももう引っ込みがつかなくなったのか、母は「ありがとう、セラス。さすがお姉ちゃんね」と歪な笑みを浮かべて、私の頭を撫でた。
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