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26)離れと、旅立ちと
蒼は上京する3日前に、勤めていた訪問介護事業所を辞めた。20歳から約4年程勤務していた。スケジュールはギリギリだったが、人手不足故に直前まで支援に入っていた。蒼は温かく励ましてくれた同僚や利用者に深い感謝の気持ちで一杯だった。
ヘルパー仲間や利用者は蒼の退職を惜しんだが、
「大丈夫。いつかみんなに歌を届けちゃるわ」
「蒼くんの歌を聴くために長生きしないと」
お互いに寂しい思いはすれど、口々に言い合い、蒼の旅立ちに背中を押した。
蒼はふと、サキの事を思い出した。副職として訪問介護の仕事を選んだ理由は、時間の自由が効くことと、サキとの思い出があった。悲しい記憶はあれど、一緒に遊んだり歌った思い出は、蒼の心の糧となっていた。支援相手はサキではなくとも、これまで頑張って来られた方の支えになりたい。俺も頑張らなければ、と漠然と思ったのだ。
歌を教えてくれ、蒼の才能を認めてくれたサキ。これからは翠とサキに向けても歌いたい。希望を、胸に抱きながら、事業所を後にした。
蒼の送別会は、東京に旅立つ2日前にROSEで行われた。バンドメンバー、スタッフをはじめ顔見知りや蒼を一目見たり会いたいとファンも駆けつけた。中には「瓶ヒット事件」当事者のファンもいた。
「あんときは、お前らの演奏も聴こうとせず悪かったさぁ…蒼がいなくなったら俺たち何を楽しみに生きていりゃいいんだよ…」
涙ながらに延々と語るファンに蒼は「音楽は辞めないんだから」と優しく諭す。あのとき、酔っ払って騒いでいたファンはあの騒動以来一時期ライブハウスを出禁になっていたが、音楽を楽しみたいと思い続けていた。蒼がライブ中は音楽を聴くという基本的な事を守らせることを条件で解禁に奔走したのだった。彼らは忠実に守り、純粋に音楽を楽しんでいる。
「蒼達の演奏がきっかけでこんなに音楽が楽しいものとは思わんかった…それまではただ、騒げばいいもんと思ちょったわ」
「まぁ、あのときはビックリしたけど、わかってくれたら嬉しいよ」
「ちっくしょー、俺たちどう生きていきゃいいんだよー」
長々と語り涙ぐむファンに、蒼は嗜めるように
「いっぱい歌って、いつかは宮崎に帰ってくる。約束すいが!」
みんなのためにも、歌わなければ。
蒼は感謝で涙ぐむと共に、心に強く誓った。
遠い昔、蒼にドラムを教えた翼も福岡から駆けつけ、再会と旅立ちを喜んだ。
「翼さんのおかげでもあります!ありがとうございます!」
蒼の心からの気持ちに、翼は照れたように笑った。
辛い事もあっだけど、楽しい事もたくさん。
バンド結成時、ライブハウスに客が全く来ない日も演奏をした事。
野次られる日、反応が全くない日もあった。
それでも諦めず、伝える為に、夢を叶える為に一途に邁進して、次第に音楽を聴いてくれる人達が増えた。何よりも音楽を愛してきたから。
そして何よりも、愛しい人に出会えた。
想いが叶わなくとも、想うだけで幸せを感じていた。
残念なのは、10年近く苦楽を共にしてきたMOONというバンドとしてデビューができない事。
ただ、悠人やトミーのサポートメンバーの話は千里に任せ、前向きに検討されている。事務所側も二人の才能を認めている様子だ。どのミュージシャンでもいけるだろう。蒼は悠斗やトミーより一足先に上京する。
「早く東京来てよ。いつかは宮崎で3人のライブをしよう!」
「蒼、いつかお前に追いつくっちゃが!」
翌日、蒼は荷物をまとめ、東京の新しい住処へと送る手配をした。部屋はバッグと東京への片道切符以外もぬけの殻となった。
ドラムセットがわりにしていた雑誌の束も、東京の住居に送り、あとはほぼ身一つで東京に行くだけだ。処分すればよかったのだが、相性が良くそのまま練習用として使う事にした。
あとは…
蒼は駆け足で、ある場所に向かった。
倒れて以来逢っていないあの人に、逢えるかもしれない。逢える保証はないけど…
様々想いを巡らせながら、ある場所へ向かう。その間、出逢った頃から様々話をした事、思い出が走馬灯のように蘇る。
「ROSE」の裏口に、その姿があった。幻ではなかった。
何故今日、しかも東京に旅立つ前日に、その姿がそこにいるのかがわからないが、蒼にとっては愛する人が目の前にいるのが全てだった。
「茜さん…」
蒼の声に、その人は振り向いた。
これは、夢ではない。
暫く2人は、何も言わずに立ち止まっていた。
あんなに言葉を交わしていたのに…
強い想いが、近づくのを妨げているような気がする。
茜も蒼を戸惑いながら見つめている。
蒼が伝えたい事は、たった一つだった。
蒼は、茜を優しく抱きしめた。
「茜さん、好き…」
言葉にして想いを伝える。
想いが報われないのは、わかってる
あなたの中には、他の大切な人がいるのもわかってる…
ごめんね…
わがまま言ってごめんね…
俺は最低なことをしてる
だけど俺には、あなたしかいない
今だけ、そばにいさせて…
今だけ、想いを伝えさせて…
茜には大切な人がいるとわかっていても、蒼には愛する感情は抑えきれなかった。
一方の茜は、抱き返さなかった。これが蒼に対する茜の答えだったが、涙が溢れそうになった。
もし私に誰もいなければ
間違いなくあなたを選んでいたのに
あなたを抱きしめることができるのに
ごめんね…
私には大切な人達がいる
だからあなたの想いには応えられない…
「茜さんの答えはわかっちょるけど、伝えないと次に進めないよ…これが俺の正直な気持ち」
蒼は茜の気持ちを察し、茜から身体を離した。これ以上、俺の気持ちを推したり、伝えてはいけない…
茜さんが苦しんでしまうから…
「茜さんは…紫さんと、ずっと幸せでいてほしい。だって2人とも、俺の大切な人っちゃが」
蒼は笑顔だった。瞳も笑っていたが、どこか寂しそうだった。
「明日から行ってくるよ。厳しいだろうけど、素敵なことが待っちょるから!」
「茜さん、ありがとう…紫さんにも、宜しく伝えてね。俺、絶対みんなにも、2人にも歌を届けるから。俺の歌がこの世に出たら、聴いてほしい!」
蒼は無邪気に笑った。ステージの上では歌い伝える事に必死なのか恥ずかしいのか、笑顔も見せず、トークもしない蒼。この彼の素顔は、茜しか知らない。
「蒼くん、必ずあなたの歌を聴くからね!」
蒼は無言で、笑顔で頷いた。
2人は背を向け、それぞれの道を歩いた。
蒼は溢れる涙を拭い、次の道へゆっくりと確実に進む。その姿を、茜は振り返り見送るが、蒼は振り返る事はなかった。その毅然とした背には、翼が生えているように見えた。
この瞬間から、蒼の栄光の旅が始まった。
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