ひだまりのひとへや

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明るい光がさす中、目を覚ます。 日光の降り注ぐ角度で今が昼である事が分かった。 我ながら随分とのんきに寝られるようになったなぁ。 こんな事が当たり前になってどれくらい経つんだろう。 そう漠然と感じながらしばらくゴロゴロと眠気の余韻に浸りながらまどろむ。 「…………、?」 何度か体勢を変えてようやくあることに気がつく。 いつもなら隣で寝ているはずのあの人、 そう。主人がいない。 やばい。やばいやばい。 寝すぎてしまった。 寝起きでぼうっとした頭が一瞬で焦りに支配される。 どうしよう。 朝ご飯どころかいつも飲まれる紅茶さえ作っていない。 使えないやつだと怒られてしまう。 早く行かなければ。 寝起きのせいでおぼつかない足取りを懸命に動かし廊下へ出る。 外は冷えきっていて体の底から身震いするような寒さだ。 氷のように冷たい床を何歩かペタペタ急いでいると、どこかから聞き慣れない音が聞こえてきた。 不思議に思って音のする方へ方向転換する。 ただの騒音ではない。 もっと違う。 こう、表現するのは難しいが不思議と嫌な感じはしなかった。 一体何の音なんだろう? 音源はどうやら廊下のつきあたり、1番奥の部屋からのようだ。 目当ての部屋の前に立ち、半開きのドアの隙間をこっそり覗く。 と、まばゆい光が一気に目の中へ飛び込んでくる。 薄暗い物置を想像していたからか、 あまりにも突然の事でどうしようもなく視界が眩んでしまう。 東側の大きな窓から降り注ぐ朝日が床から壁に至るまで全体を明るく照らし、ガラス窓に日光を覆う形で取り付けられている白い半透明のカーテンが僅かな風にはためく。 そして部屋の中央には黒くて大きな四角い物体が1つだけ。 主人の家は物が少ない方なのだが、 割と広めであるこの部屋には家具と呼ぶべきかも定かではない謎の物のみ。 いくらなんでも異質だと感じた。 同じ色をした黒い椅子に当の彼女は優雅に座して、 物体についているいくつもの白い突起の上で手を動かしている。 そのたびに僕が引き寄せられて来たあの音が生まれていた。 怒号やガラスの割れる音しか耳にした経験がない僕にとっては全く聞いたことがない種類の音だった。 とにかく主人が手を動かし突起に指を沈めるたびに弱かったり大きかったりキンと張り詰めたような音から腹に響く恐ろしい音まで。 止まることなくどんどん湧き出て耳に、頭に、体に軽い衝撃を与え、消えていく。 この行為が人間様の嗜みなのかもしれないという想像はついたものの、真相が何かさえも分からない僕は不用意に声をかけることさえできない。 しかし かといって立ち去る事もできずに僕はひたすらドアの前に立ち尽くしているしかなかった。 どのくらいそうしていたのか。 「シュウ君?」 「、ぁ……」 振り向くとそこには僕より1回りも2回りも大きい男の人が立っていた。 通いの家政夫である本郷さん。 彼が出勤している時刻ということは、 もうお昼前か? 信じられない。一体……僕は何時間寝ていたんだ。 「すみません……ご、ご飯の準備……できてな」 頭を下げて不手際と失態について謝罪する。 もっとも1番朝ご飯ができていなくて迷惑している相手。 謝罪すべきなのはご主人様なのだが。 「あぁ、いいのよ。」 本来私がやる事だし。 あなたがわざわざご飯作らなくてもいいんだからね? 仕事奪われちゃったらお金受け取れなくなるでしょ。 私だって給金分の仕事はしなくちゃ。 「す、すみません。気をつけます……」 仕事をしていないことを謝ったら逆に、しなくていいんだと釘を刺されてしまった。 奴隷として幼い頃に植え付けられた奉仕精神は月日がいくら経ってもなかなか抜けない。 僕の中には今でも 『主人が起きる前に食事を作る。』 という行動が機械並にインプットされてしまっている。 しかしこのままではいけない。 これからは本当に気をつけないと、本郷さんの仕事を奪ってしまうのは望ましいことではないのだ。 「まぁ、 その分朝はゆっくりできるから感謝はしてるんだけど」 彼はあっけらかんと笑うと 「あの子、ピアノ弾いてるのね。珍しい」 小声でそう言って僕の上に覆いかぶさる体勢で扉の隙間から部屋を覗き込んだ。 「……ぴ、あの」 また知らない単語。 あの黒くて大きな物体はぴあのと言うのか。 いや、椅子に座って白い突起を触る行為自体をぴあのと表すのかもしれない。 「初めて、見ました。 本郷さんもされるのですか?」 彼は声が聞き取れるかどうかの声量でクスクス笑い 「私は無理よォー、 あの子ぐらいのレベルに達してる人は珍しいし。 たぶん500人に1人いるかどうかじゃない?」 割と驚きの事実をさらっと口にした。 「……ご、ひゃく」 全員が嗜むわけでは無かったのか。 人間様の中でも選ばれた一部の方々しかできない芸当。 この頭では想像が追いつかず、500という数の規模すらもすぐには浮かんでこないが、本郷さんが得意そうな表情をしている所を見るときっとそれはとても名誉なことなのだろう。 ぽそりぽそり、主人の邪魔をしないように僕達は喋り続ける。 「凄いでしょ、 ……私も久しぶりに見たわぁ。 半年くらい前からバタバタしてて鍵盤に触る暇もないって嘆いてたから。 きっと余裕ができたのね、良かった良かった」 半年前。 僕には思い当たる節がある。 まるで矢のような鋭さで罪悪感がかすめていった。 「…………僕のせいなんでしょうか」 血液が一気に足へ向かって流れ落ち、少し目眩がするくらいだったというのに、発声はどうしてか一周まわってとてもスムーズだった。 そう、僕が奴隷としてこの家に買われたのがちょうど半年前。 目の前の彼が言うことが本当であればこの半年間、主人は常に余裕がなかったことになる。 どうして気づかなかった。 機嫌を損ねないように顔色を伺えとあれほど教えられたではないか。 基礎的な事すらもままならない愚かな自分を心の中で叱咤する。 馬鹿な自分なりに迷惑をかけないよう、いつも気をつけていたはずだった。 主人はいつも僕に対してニコニコ微笑んでいらっしゃるから自分がこの場にいることに不満を感じてはいないんだと解釈していた。 それなのに、知らず知らずのうちに負担をかけていたのか。 しかも半年という期間に渡って。 なんという失態。 これでは捨てられてもーー 「そんなわけないじゃない」 きっとやることがいっぱいあっただけ、もちろんいい意味でね。 幼子を目の前にしているのかと思うほどのとても優しさに満ちた声で彼は囁く。 けれど、、 そう、なのだろうか。本当に……? なおも不安を拭いきれない僕を本郷さんは静かな目で一瞥すると、 ドアを静かにあけ 「ほら、行ってきなさいよ」 おどけた口調で僕の背中を押した。 「!……ぁ」 反動で1歩、2歩、足が出てしまい大きな足音に加え、床がきしんだ音を立てる。 刹那。 ぴあのの音が、 止まった。 まずい、駄目だ。 あの人は驚愕に見開かられた顔をこちらに向ける。 「びっくりしたぁ、不審者かと思ったじゃん」 彼女はどこの誰から見ても分かるくらいの苦い顔をする。 隠しきれていない不快感を滲ませているというのにその表情は光に照らされていて、この世のものではないのかと錯覚する程あまりにも綺麗で神々しい。 主人の不興を買っているだけではなく神の怒りをも貰ってきていると、冗談抜きで頭が判断する。 やばい、駄目だこれは駄目だ どう取り繕えば。 違う、謝らないと。 ーー怒られる……! 「ッも、……申し訳ございっ、ませ……ん お邪魔をして、ぁ……朝食もッ作れず」 必死にこうべを垂れ、つっかえながらも謝罪を述べる。 「まーた謝ってるじゃん」 しかし予想に反して頭上から降ってきたのは けたけたとした笑い声だった。 怒声を覚悟していた僕は思わず驚いて顔を上げる。 ご飯は勝手に冷蔵庫から漁って食べたから大丈夫。 君が寝坊するってことはこの家にも慣れてくれたってことだからむしろ嬉しいし。 なにも問題はないよ? 彼女は椅子を降りて僕に歩み寄ると頭に手を添えて軽く撫でてくださった。 本当に……ご主人様はお優しい。 今日だけでなく、僕は今まで何度も失態をおかした。 しかし彼女は1度も怒ったり罰したりしたことがないのだ。 「おはよぉーー、シュウ あはは。髪跳ねてる」 柔らかな視線を、声をもらうだけで本郷さんと話した際に生まれた不安がどんどん溶けていく。 よかった。 捨てられない。 まだここに置いてもらえる。 僅かな戯れの時間を終えると 「本郷さん、おはようございます。 今日は随分と早い出勤ですね」 本郷さんへ細めた目を向けて軽く会釈した。 「えぇー、だって本日は給料日でしょ? 楽しみで楽しみで!」 いきなり朝の挨拶をすっ飛ばして 目をキラキラ輝かせながら手を叩く本郷さん。 「全く。 現金ですよねー、大人ってそんなものなの?」 ちょっと不服そうな表情を伺わせる主人に対して、 構わず僕らに向けてピースをかます本郷さん。 「いただいてる給金分はきちんと働くってさっきシュウ君とも話してたのよね。 本日の業務はいかがいたしますか?」 彼女は 「この子に向かってなんの話してるんですか」 ぶーぶーと効果音がつきそうなトーンで抗議をし、 「今日は昼からショッピングモールにお出かけしようと思うので、掃除の方よろしくお願いしますね。 夜ご飯に必要なものがあれば買ってきますよ?」 「んー、今日はクリームシチュー作ろうと思ってるから。 人参と玉ねぎ買ってきて欲しいな」 「あ、了解でーす」 業務連絡という名の夕食の相談を終える。 彼らは仕事上のただの雇用関係でしかないが、平和なお二人のやり取りが微笑ましくてつい自然に口元が緩んでしまう。 僕らに血の繋がりは無いが家族がいたらこんな感じなのかな、と時々思うことがある。 頭を撫でてくれる優しくて綺麗な母。 家事を積極的にこなしてくれる、ちょっと即物的だけど面白くて頼もしい父。 奴隷という身分である自分が家族を持つなんてこと、おこがましすぎることだとは分かっているが。 こんな自分にも父母のような優しさをくれる2人に、精一杯仕えようと思う。 いずれ成人し、老いれば処分される身なのだから。 いただいた恩はできる限りこの身で埋めよう。 全身全霊を尽くして、 もうお前はいらない。 用済みだと告げられるその日まで。 「シュウくーん。何ボーッとしてるの? ご主人様お出かけされるんだから、玄関までお見送りしに行くよ!」 「あッ!はい、すみません。今行きます」 「だからいちいち仰々しいよ。 恥ずかしいからやめてっていつも言ってるじゃん」 「いいからいいから。 大人しく見送られてなさいよ」 彼らは明るい部屋に背を向け 去っていく。 キィと小さな音をたてて扉が閉まり、 光に満ちたその部屋はまた静かになった。
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