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「あなた、どういうつもり」
葛城は廊下を歩いていた。葵が今にも殺しそうな目でこちらを見ている。腕を組んだまま仁王立ちし、彼の往く手を阻んでいた。
「何してんすか、どいてください」
「いーや! どかないわよ。随分勝手なことしてくれたようじゃない」
「勝手なことしたのは会社ですけど」
「常務の決裁は下りている。プロセスは合法よ」
しばらくの沈黙の後、粛々と引き返していく葛城。思った以上の素直さに拍子抜けした葵は、腕を解き、反対側へと歩いて行った。
数秒後。けたたましい勢いで足音が近づいてくる。振り向けば葛城の顔面とメガネが視界一杯に広がっていた。
「ひゃあ!!」
咄嗟に壁へと身を避ける葵。葛城は自身の横を流れるように通り過ぎていった。
「ま、待ちなさい!!」
今度は彼女が葛城を追いかけていく。他の社員がさすがにざわつき始める中をお構いなしに回り込んで肩を掴む。葛城は別人のごとき涼しい表情を浮かべていた。
「何すんとしてんのよ!」
「うわっ、大平”部長”! どうしたんですか? やめてくださいよ大平”部長”!」
「こういう時ばかり”部長””部長”言うな!」
葛城の腕を掴み、なるべく周りの目に留まるタイムが長くならないよう自販機のある小さなくぼみを見つけそそくさと駆け込んでいく。それはそれで騒ぎになりそうではあるが。可能な限り小声で言葉を発する。
「どういうつもりなの!?」
「何がですか」
「これ以上勝手な真似はやめて! 立花常務にも迷惑かけて……」
「俺の研究を売り飛ばそうとするからですよ」
「会社の信用が下がったかもしれないのよ!?」
「それで技術を守れるなら安いもんでしょ」
葛城はさっきから目を合わせない。本人からすればこの会話をする時間も無駄なのだろう。異動になった元メンバーも葛城とは研究以外のことをほとんど話さなかったという。研究を考えることが彼にとっても”マイル”なのである。恐らくこの会話も、テレビに集中している時に、隣から「ねえねえ」とスマホの画面を見せてくるようなものとしかみなしていないのであろう。
「どうしてそんなにこだわるの?」
葛城は表情こそ崩さない者の初めてこちらに視線を向けた。
「『子供』を大事にしない『親』がいますか?」
彼からもそんな言葉が出てくるのかと葵は失礼ながら意外に思った。
「それに」
葛城は内ポケットから四つ折りにされた一枚の紙を取り出す。大平善十郎のサインが入り、長文がプリントされている。それは、葛城が入社した5年前の正月に出された訓示であった。冒頭のタイトルが目に付く。
「『壊社員たれ』?」
「家に届いたんです。『殻に留まるな。いっそ会社を壊す壊社員であれ』」
紙は折れ目やしわが入り年季を感じさせる。それだけ何度も取り出しては読み込んでいたのだろう。事実、葛城は文中の言葉を、一字一句間違えることなく読み上げた。自販機に小銭を入れ、コーヒーのボタンを押す。
「社長がこの言葉を僕にくれたから、研究に自信が持てたんです」
「あなたに?」
「ええ、僕に。大学院でも周りから絵空事と笑われてたんで」
葛城は缶コーヒーを口につける。彼の苦々しくも口角の上がった姿を葵は初めて見た。
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