第1部「着火」

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「乾杯!!」  清水は勢いよくビールを流し込んでいく。対する葛城は申し訳程度にオレンジジュースに口をつける。だが、表情にこそ現れないものの、今日大きな収穫があったことは間違いない。清水が口を開く。 「いやあ、葛城さんのおかげで、やっと景気いい話が聞けたよ! ありがとな!」 「ああそうですか」 「なんだよ、冷めてんなー」 「いや、俺は自分の研究さえうまくいけば」 「ハハハ! そういうところ! 逆に信用できる!」  2人が会ったのは数日前である。ゴルフ練習場の長津田からコールを受けた寺林は、葛城に引き合わされた。そしてマイルフォンの企画書を眺め、驚嘆する。下手すれば数十億とも数百億とも動きかねない話だ。 「寺林さん、こういうの待ってたんでしょ?」  翌朝の華陽で長津田は己の手柄の如くにやついていたという。それは癪に障るが、願ってもいないチャンスであることは間違いなかった。  『不良債権』扱いされているクライアントがドル箱を生みだし、自分も背中を押したとなれば、燻り人生が変わることは明白であった。  途端に彼の思考は次へと移る。 「あとは、量産体制ですね。ノウハウがあるところといえば……」  答えは見えていた。2人はその足ですぐに清水製作所へと向かう。清水もまた、活路を見出そうとしている点では同じだった。そして、ここに書かれていることが実現できれば、パワーバランスは大きく変わるだろう。しかし、一方で経営者の自分が脳裏をよぎる。設備はどうするのか、既製品の生産はどうなるのか、スタッフに教育できるか。 「工場の設備だって、うちが投資するよ」 「え?」 「このマイルフォンの量産体制を整えるために華陽に融資する。それで清水製作所も出金が増えるというなら、パッケージとして稟議にかける。工場も頭一つ抜け出すためのいいきっかけになる。悪くはないはずだ」  ここまで喋る寺林の姿も久しぶりである。毎晩泥酔した状態で押しかけ、タクシーに乗せられて帰る彼の目は、今日こそまっすぐ自分を向いていた。 「うちが頭打ちって言いたいのか」 「あっ……」  そういうところである。寺林の顔から血の気が引いていくのが見えた。 「え、違うの?」  寺林の横にいるメガネが初めて発した言葉である。このマイルフォンの仕組みを生み出した葛城という男。寺林の目に熱が宿っているとすれば、彼の目は何にも染まらず、ただ透き通っているだけのようである。  その無垢な表情と絶妙な間に、清水は噴き出した。 「アハハ! 言うなあ!」 「初めての反応だ」 「葛城さん! 余計なことを……」 「いや、確かにそうだ。何かしなきゃいけない。変わらないといけない。いつも言ってることだったな」  寺林の肩をつかむ。 「こういうのを待っていたのよ。昭宏」 「お? おう」 「スタッフには俺が説明する。なるべく低金利で頼むぜ」  そして今日に至る。寺林はスキームをまとめ、この度華陽副社長・弓月に融資の提案を持ち掛けた。 「銀行の稟議が下りるならば引き受ける。だが、稟議が通らないか、それまでに交渉がまとまるかすれば、マイルの技術は売却せざるを得ない」  それが弓月の答えであった。立花の企図する売却の話が消えたわけではないが、寺林のいる銀行にボールが渡った今、実現は間近だった。寺林はそのまま銀行へ戻り、稟議を通す準備に入った。残りの2人、というより清水は葛城を誘って前祝いというわけである。 「早く昭宏戻ってこないかな」 「まだ喜ぶのは早くないですか。銀行が融資すると決めたわけではないし」 「いいよいいよ! 今日はぱっとやろうぜ!」  清水が頼んだ追加のビールが運ばれてくる。 「あれ? お客さん、そのバッジ、華陽ですよね?」  運んできた彼は、オレンジジュース二口目の葛城に話しかけた。 「まあ、はい」 「実はこの前、テレビ壊れたときに、華陽の人に見てもらって。引き取りから買い替えまで全部相談にのってくれて、本当助かりました! 大平葵さん、またよろしく言っといて下さい!」  葛城は数秒間手を止める。 「……へえ、そうだったんすね」  彼はそれだけ言うと、三口目に入った。  寺林は先ほどよりも幾分ご機嫌になってきていた。彼の中では「勝利」を確信しているのだろう。周囲の喧噪もあり、上着のスマホに不在着信が一件、寺林が入っていることにまだ気づいてはいないようであった。  同時刻。銀行で一人、うなだれ、目を虚ろにして座り込む寺林の姿があった。
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