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第1部「延焼」
「聞きましたよ、立花さん」
同時刻。後藤は目の前に座る彼に投げかけた。ちょうど今、鯛の刺身が差し出されたところである。
「双葉銀行がマイルについて融資の申し出があったそうですが」
「ええ、ありました」
「我々と売却を交渉しておきながら、前向きな返事をしたそうですね」
「弊社の弓月が、『銀行の稟議が通れば融資をお願いしたい』と話したのは事実です」
彼はジャケットを直し、体を前に傾ける。
「なので、私の方から銀行に辞退を申し入れました」
庭の鹿威しが響く。後藤は右の口角だけをうっすらと上げた。
「さすがです。それを聞いて安心しました」
「双葉銀行の営業部門は、御社を最重要クライアントと位置付けています。こちらの話を持ち掛けたら、御社の機嫌を損ねるわけにはいかないとすぐに手仕舞いに走りましたよ」
「弓月さんには、どう説明するおつもりで?」
「銀行への情報提供とバーターで、同額の追加融資を確約したと。ただし、マイルへの投資ではなく、あくまでも『経営再建』に使われるものですが」
「金をどぶに捨てさせて、いずれの顔も立てるわけですか。葛城を除いて」
「……もちろんです。管理職ですから。ハハハ!!」
翌朝。銀行内は明らかに張り詰めていた。提案ストップがかけられたことを寺林は上司に迫った。
「お前にとっても悪い話じゃない。同額の融資となるから、お前の数字になる。だから、マイルの話は、いいな?」
上司はなだめるように語り掛ける。しかし、いつも営業を急かし、自分を突き放しているいつもの姿を彼は知っている。届くものなどなかった。
何より、寺林にとって、当初思い描いたシナリオは完全に崩壊していた。わざわざ自身が提案したものをひっくり返した上で、骨抜きのプランに挿げ替えられている。彼にとって承服しかねるものであった。
何より、清水や葛城に合わせる顔がない。これではまるで、自分が梯子を外したようなものである。自分の持ち場を荒らされたようで気分が悪い。
「そんなにアポロンが大事ですか」
思わず言葉がこぼれた。
「俺には売上で黙らせて、華陽には札束握らせて終わりですか」
「寺林! 口が過ぎるぞ……。考えてもみろ。華陽にこの事業を実現できるだけの体力があると思うか? アポロンの方が事業の継続も見込める。だから……な?」
「……そこを助けるのが、銀行の役割じゃないんですか? 『儲かってるから貸す、貧しいから貸さない』なんて本末転倒だ!」
自分でも驚くくらいの大声が社内を覆う。皆がこちらを見ている。業務そっちのけで、彼は鞄一つ持って外へと飛び出した。上司ですら何も言い返せなかった。気味が良かった。もうここに戻ることなどないだろう。いい機会だ。
ふと、歩みが止まる。清水は、葛城はどうしているだろうか。昨日の晩、飲みの席で自分を待つ2人には、電話することすら怖く、メッセージだけで済ませてしまっていた。思えば、この時点で会う資格など、あるというのか。
「昭宏!」
聞き覚えのある声がした。顔を上げると、酔いつぶれた時に通い詰めた製作所の看板だった。声の主は、やはり清水である。幻覚なのか、笑っているように見える。いや、実際笑っていた。
「どうした!? 元気か?」
「清水さん……その……」
「待った! それを言うのはナシだ。分かってる。お前も大変だった」
寺林は自分の唇が振るえているのを感じた。
「参ったよ。うちも、黙って話を進めたのがバレて、従業員からボロクソ言われてさー」
事務所の中がここからうっすらと見える。椅子が散らかっており、先ほどまでの荒れ具合が容易に想像できた。
「とくに、坂田の爺さん。あの人が言うと周りの連中、皆続いちゃうんだよ。『金もないくせに偉そうに! 俺たちの技を蔑ろにする気か!』ってな」
清水の声がその時だけ低く、しわがれた。
「……それ、ものまねですか?」
「似てる?」
寺林はつい吹き出した。
「いや、知らんし」
「ハハハ! で、どうするんだ?」
「どうしましょう。上司に怒鳴って飛び出してきちゃいました」
「それは帰りづらいなあ! 知らねえぞ? あれか、クビか?」
「俺のことより、葛城さん! 彼はどこに?」
「あー……それがさ」
清水の言い終わる前に、寺林のスマホが鳴った。
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