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「まずデスクを片付けて」
黒髪の彼女は葛城の前に立っていた。
異動の発令からさらに1か月。葛城に対峙するのは、製品開発チーム改め製品開発部の新部長・大平葵である。名字からお察しの通り、彼女は社長・善十郎の令嬢である。27歳の若さにして、次代の社長就任を約束され、3年前札幌支社長に着任。統治者としてのキャリアを着実積み上げてきた。そして、善十郎の病状悪化に伴い、問題児を鎮めるためこの度本社へと凱旋してきたわけである。
「デスクが散らかってるから捨てて」
しかしいくら名目上栄転とはいえ、野菜ジュースのパックや弁当の食べ殻が床に転がったオフィスは環境として劣悪である。大学サークルの場末感漂う部室ならまだしも会社としては飛ばされたんじゃないかとすら思ってしまう。
製品開発チームは葛城以外全員が異動となった。彼女以外に話しかけられるはずの人間はいないはずである。葵の呼びかけに、PCのモニターと向き合う葛城は無視する。
「要らないものは捨てて」
無視する。
「捨てて」
無視する。
葵は床の書類やペットボトルの飲みかけを拾い上げ、葛城のデスクへ。
バアンッ!!
「上司の言うこと、聞いて?」
葛城はようやく顔を上げ、イヤホンを外す。彼はその時はじめて葵の姿・顔・声・存在を認識した。三白眼を見開きこちらを見ている。ショートボブの黒髪が揺れる。
「ちょっと、ここゴミ捨て場じゃないですよ」
「私のゴミじゃないわよ! だいたいゴミ捨て場にしてるのあなたでしょ!」
「何ですかあなた」
「大平葵よ。今日からここの部長に着任したの。色々好き勝手暴れていたようだけど、私が来たからには好き勝手させないから……って途中でイヤホンを戻さない!!」
「シーッ、仕事中なんだからみんなに迷惑でしょ」
葵がわなわなと身を震わせる。拳がぎゅっと締まる。しかしここで手を上げるなど創業家の者として、何より人として許されはしない。ましてこの男のことである。必ずやあらゆる手段で華陽を糾弾してくるだろう。数多くよぎったリスクがコンロの火を止め、沸騰は収まっていた。何より、性分ではない。
いったんオフィスのドアを開け、葵は外の空気をめいっぱい吸い込み、吐いた。目線の先に立花と弓月を知るのは数秒後である。
「こ、これは失敬」
「いかがですか葵さん。彼は」
「噂に聞いた問題児。それ以上でもそれ以下でもないかしら」
「ご苦労を押し付けて申し訳ないですねえ」
「苦労? こんなことで参ってちゃ、次期社長なんて笑い話よ」
葵は長く伸びる通路を早足でかつ悠々と立ち去っていく。その背中が半分の大きさになったとき、立花が口火を切った。
「ご令嬢が社長となれば、華陽も安泰です」
「皮肉に聞こえるが?」
「とんでもない。私はあの方を買っております。葛城のお守りなどお労しや……。やはり奴は出向でもよかったのでは?」
「この人事を言い出したのはお前だろ?」
「葛城を残すとなったからですよ。ならば鉄壁な布陣で臨むのは当然。葵さんは、私共の考えにも理解いただいているようですし」
弓月はポケットから手のひらサイズの箱を取り出すと、白い筒状の物体を一本抜き取り口に咥えた。
ココアシガレットがマイブームである。
「そう言ってそそのかしたのか? 傀儡の模範だな」
「聞こえが悪い。葛城の封じ込めは私もお手伝いするつもりです。もう一つ手立てが」
「ほう? できるのか」
立花は彼にだけ見えるくらいの小ささで頷いて見せた。
「分かったお前に任せる」
弓月もまた長い通路を歩いていく。その背を立花はじっと眺め続けていた。
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