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『大平善十郎、退任の意向を固める』
その報は、取締役会の翌朝から国内外を駆け巡った。かねてより病床に伏していた善十郎の退任は誰しもが予感していたが、マイルフォンの好調に押され再建の道筋が見え始めた中での退任とあって、インパクトは相当なものだった。
一方で、後任の葵に対し、彼の威光を引き継げるのかという懸念が投資家の間で広まり、華陽の株価は取引終了まで乱高下を続けた。彼女以外の誰がなってもこうなることは予想がつくが、葵と華陽にとって波乱の船出となった。
「大変なことになりましたね」
その夜、都心郊外のダーツバーに清水と後藤が居合わせていた。
「大丈夫ですよ、清水社長。マイルフォンの需要が変わるわけではありません。業績に影響はないはずです」
清水の放ったダーツは回を追うごとに少しずつ外側へと逸れていく。
「今日は少し調子悪いようですが」
「……聞いてくれます?」
仕事を通じて、2人は週に何度も会うほど親交を重ねていた。年齢が近しいだけでなく、地元も同じで、似通ったマインドを持ち合わせていたことから意気投合した。
「この前友達が結婚したんです。嬉しかったけど、自分のこと考えちゃって」
「まだ、独身でしたっけ」
「はい。でもね、仕事一筋だった結果、独身のまま死んでしまったのが叔父さんだったんです。会社が大きくなったのはいいけど、逆に仕事仕事って感じでねえ。たまにお腹いっぱいになるというか」
手元の最後の一本が放たれる。頼りなく飛んでいったそれは、盤面に弾かれ床へと落ちていった。
「ああ! チッ、やっちまった」
後藤はブランデーを一口だけつけ、グラスを置いた。清水はふらつき、感情表現が大きくなり始めている。自覚しているからこそ普段は控えているが、一度飲み始めると酔いが回るのは早い。
「それ、力になりましょうか」
後藤が切り出した。
「え?」
「事業承継は、何も一人で思い悩む話じゃない。社員の皆様の人生もかかっているからこそ、より多くの人の手を借りるべきだ」
「……そういう、ものなのかな?」
「そういうものですよ。ましてや一番脂の乗ってるこの歳で、自分の時間を使いたいと思うのは当然です。そして何かあった時には、我々がセーフティネットとなり助ける。会社経営の、いや人間社会の根本では?」
清水はその言葉を聞くと、後藤の隣に座り、体を前に乗り出した。
「後藤さん、あんたの言うとおりだ! 俺は感動したよ!」
「清水さんの意思は最大限尊重します。早速準備しましょう」
「ああ! ぜひ頼みます!」
勢いに任せ、清水は再びダーツへと向かう。刺さっていた矢を抜き、狙いを定めて放つ。しっかりブルに突き刺さり、清水は腕を上げた。
「よっしゃあ!!」
後藤は微笑み、もう一度ブランデーを口に含んだ。
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