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第2部「暗雲」
「いやあ……それは向こうさん怒るのも無理ないですよ……」
水を一気飲みして上がった息を整えながら、寺林は向かいに座る清水にそう答えた。ワイシャツの襟周りの汗が冷たくなっていく感覚を覚える。
「立花常務のおかげで大事にならずに済みましたけど、普通にやばい話ですから」
「えー? そういうもんかな……」
「だから飛んできたんですよ。考えてみてください? 納得してるだけで、清水さん会社追い出されてるってことですよ?」
「失礼な! 後藤さんに限ってそんなことないって!」
寺林は腕を組み椅子にもたれかかり、天を仰いだ。1年前まで自分の悪酔いを諫めていたあの清水が、こうも変わってしまうものなのか。それほどまでに後藤に絆されているということなのか。
「俺は元々こっちが性に合ってたんだよ。叔父さんから会社継いだはいいけど、餅は餅屋っていうかさ。だからプロの後藤さんに託したってわけ。これから自分探しの旅もしたいし……」
腕時計を見て、寺林は適当なあいさつで切り上げ、その場を後にする。恐らく彼は事の重大さを分かっていない。2社の緩衝地帯となっていた株式会社マイルは事実上アポロンの傘下に入った。今後の勢力図も大きく変わりかねない。
こうなれば清水に代わって、なるべく影響が出ないよう見張ることが先決である。それがこの枠組みを作った身として、また双葉銀行営業部次長としての責務と考えていた。
幸いにも従業員や労働環境などに変化はないようである。帰り際、それぞれの作業場を見て回る。まるで自分が社長のようである。
「気になりますか」
余裕のある表情を浮かべ、『新社長』はそこに立っていた。
「従業員を悪いようにはしませんよ。これはあくまで経営の話です」
「酔いの席でハンコを押させるのが経営ですか、感心しませんね」
「切り出したのは向こうです。それに、清水さんの意思は最大限尊重します。会社を預かるだけのことですよ」
「マイルフォンの生産費用もアポロンに金が流れる。これでは華陽の一人負けでは?」
「それは華陽がどう考えるかでしょう。立花常務はそのあたり寛大でおられますがね」
寺林にはある程度察しがついていた。当初マイルの技術をアポロンに売却しようと動き、融資提案の際に立花から辞退を申し入れてきたなどを勘案すると、立花とアポロンを繋ぐラインが存在していることは間違いない。
「そういうところなんですよ、華陽という会社は」
日陰にすっぽりと入った華陽の本社を遠く眺め、後藤はそうつぶやいた。
「この国のビジネスの発展に、じり貧な企業は妨げになる。そういう存在は、我々の手で壊していかないと」
後藤の着信画面に立花の名が現れる。寺林は日陰を被ったビルに向かって急ぎ歩を進めた。遠ざかっていく中で、最初は示し合わせたかのように軽快な口調だった。だが、しだいに彼の声が曇っていくのが引っかかった。
「宇和島さんが……ですか……?」
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