第1部「燻煙」

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「ほんっと! 感じ悪いんだけどあいつ!!」  葵のジョッキがテーブルに強く叩きつけられる。喧噪の中、客はその音が聞こえることすらない。目の前の男を除き。 「ハハハ、噂に聞いていましたが……『凱旋』が台無しですね」 「勘弁してほしいわよ、長津田くん何で同じ部署じゃないの?」 「俺が決めるんじゃないですから。てかほんとに歓迎会とかないんすか?」 「あるわけないでしょ! 大切にされてないの。あんたも急に誘い過ぎでしょ。こういうのは事前に一声かけるのが礼儀じゃなくって?」 「かけたじゃないですか。会社出る前に」 「だからそういうことじゃなくて~!!」  目の前の男は、営業部長の長津田明弘である。葵の12歳年上だが、彼女が入社した時から常に部下としてついていた。周囲が畏れ過剰に気を使う中で、命知らずかただの鈍感か、長津田だけは彼女にチャンネルを開き続けた。たまに煙たがられることもあるが、幸い今でも交流を続けている。 彼が一足先に本社勤務に戻ってからは疎遠になっていたが、今回2年ぶりに同じ職場で働くこととなった。   「立花さんもねえ、こんな大変な時期だから張り切ってるのもあるんでしょうけど。で、それで! お父様は大丈夫なんですか?」 「……あんたデリカシーって知ってる?」 「はい?」 「さっき『凱旋』つったし……まあいいけど。今は大丈夫でも、この後どうなるかね」 「大丈夫です! 俺がついてますから!」 「……いっちばん不安」    時計の短針が頂点に近づくにつれて客の数は減っていき、いつしか葵と長津田の2人を残すのみとなった。奥から店主とバイトの声が聞こえてくる。 「あれ? おかしいな」 「店長、カウンターにスマホの忘れ物……って、どうしたんすか」 「いや、なんかテレビが急に映んなくなってさ、真っ黒なままなんだよ」 「故障ですかね?」 「分からん、線入ってるか?」 「そうみたいですけど……叩きますか?」 「そうだな。一回ガツンと……」 「待って!」  葵が立ち上がり、2人の下に駆け寄る。 「はい? あ、このスマホお客様のですか?」 「いや、じゃなくてそれ。叩いたら逆効果ですよ。さっきまでついていました?」 「え? あ、はい……」 「中の端子に問題があるのかも……工具箱あります? 私見ます」 「いやいや、お客様にそんなご面倒は!」 「私、職場が華陽なんです」 「華陽……? あの華陽電機の?」 「さあ、さくっと終わらせますよ」  ジャケットを席にかけ、運ばれてきた工具で葵は手際よくテレビを分解していく。配電盤に折れた端子を見つけると、ピンセットで拾い上げた。 「これがかなり限界きてる感じですね。これ中古でしょう?」 「なんで分かるんですか?」 「実家も電器屋だったんです。このモデル10年前のやつですけど、周りが一部新しいのは前にも修理したからじゃないです?」 「は、はい……」 「もうこの端子は生産止めちゃってるんです。修理するとなると特注しなきゃだから10万は軽く超えるかもしれないですねえ。これは買い替えが早いかも……」  葵は視線の先を長津田に向けた。久しぶりに見た無心な葵の姿に見とれていた彼は数秒後に我に返り、鞄に入っていたパンフレットを取り出す。 「よろしければこちら無料で引き取らせていただいて、3割引きの4万9800円で新品ご用意しますが、いかがですか?」 「いいんですか? これは助かるなあ」 「すげえ……俺ん家の洗濯機も見てもらえます!?」 「もちろん。一度お伺いしましょう。何かあれば私、長津田と申しますので」 「ありがとうございます!」  ささやかな歓迎会は2件新規獲得をもってお開きとなった。 「これなら、経費落ちますよね?」 「思ってても言わないそんなこと」    交差点の手前まで歩くと長津田はタクシーを1台停め、葵を一人乗せた。   「じゃ」 「ありがとうございました……あの、葵さん!」 「ん?」 「さっきの言葉、嘘じゃないですからね」  いつもの調子の良さを持ちながらも、長津田の眼差しはまっすぐと自分に向いていた。 「……熱意はあるんだよなあ」 「え?」   ドアが勢いよく閉まるとタクシーは勢いよく走り始めた。ぽつんと残された長津田が少しずつ小さくなっていく。その様子に葵は吹き出さざるを得なかった。  窓の外を眺め、ふと呟く。 「やるしかないか」
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