30人が本棚に入れています
本棚に追加
/83ページ
「嘘だろ……携帯ねえじゃん」
夜道に一人、男はポケットというポケットを漁り立ち尽くしていた。
「店だよ……」
踵を返し、重い足取りで歩いてきた道を戻る。襟の『ふたば銀行』バッジに、追い抜く車のライトが反射した。
寺林昭宏は個人としての優秀さを維持する一方、属する組織はいつも2~3番手だった。学年トップの座にいた彼の高校は2年の頃ライバル校の偏差値に圧倒され、志願者が定員割れを起こした。奨学生として進学した私立もいわゆる学閥としてはあまり強い方ではなく、就職活動では上位の私大生や国公立大生の後塵を拝した。
そしてようやく内定を手に入れたふたば銀行もまた然りである。金融不況により各社が採用を渋る中、最後発のメガバンクは彼を温かく迎え入れられた。しかし、実際の競合案件になると彼は自身の属する組織がどの位置にいるか身をもって知ることになる。
「最大手の八洲銀行に融資してもらいます」
「御社は利息が高いんだよ、八洲さんはもっと安いよ?」
「他はできるっていってるのに、後発の御行はできないんですか」
「とりあえず、一番有名なところで!」
競合は連戦連敗。他行が不況から立ち直る中、寺林の銀行だけが取り残された。彼も学習量は人一倍多かったので、差別化した提案を試みる。しかし、経費節減で立て直しを図りたい銀行側はあくまで正攻法にこだわった。結局同じ土俵で勝負し、競合に負け続けるという悪循環である。
やがて彼と銀行との溝は大きくなり、ついには彼を見る視線も冷たくなっていった。
「遊んでないで飛び込みかけろ」
「会えば分かってくれるはずだ」
「接待してご機嫌とれ。領収書? お前が持てよ」
2年前に日比谷支店へ異動となり、言われた通り接待を始めると、確かに案件は増えた。しかしほとんどはその場だけ気持ちよくなるだけの打ち上げ花火である。そもそも自分の周りで銀行が評価されたことで仕事につながった例など一つもない。大体がコネやバーターである。いつまでこんなことをやっていくのか。彼には焦りがまとわり始めていた。
悲しいことに、かつてエリートの一線にいた彼の顧客は、今や回収の見込めない不良債権がほとんどだった。新規の案件に手を出そうにも易々と応じるようなところなどあるわけもない。今日もアポロンの女社長にけんもほろろにやられてきたところである。
いっそここで逃げてしまおうか。夜風を受け頭の中で「悪い自分」が囁き始めていた。
「あーよかったですよかったです!」
寺林のスマホを両手に持った居酒屋のバイトが妙に上機嫌である。
「……そんな嬉しいです?」
「いやあ、ずっと壊れてた洗濯機やっと取り替えられそうで!」
「へ、へえ……よかったですね……」
知らんがな、という言葉をのど元までに留めながら彼は店を出た。今日くらいはタクシーに乗っても罰は当たらないだろうと店前の車道に出る。
「あれ、寺林さん?」
振り向けばそこには華陽営業部長の長津田の姿があった。その会社はまごうことなき、彼の扱う「不良債権」である。かつては名を馳せた電機メーカーだったというが、今は昔である。
「あ~これはどうも長津田さん!」
顔じゅうの筋肉を使い思いつく限りの笑みを浮かべる。気をつけなければいけないのは、彼が良くも悪くも正攻法が通じないことである。
「もしかして、さっきの店いました?」
長津田が店を指差す。
「え、ええ……。長津田さんもですか?」
「偶然ですねえ。自分も今先輩を送ったところで」
「先輩ですか?」
「はい。あ、そうだ」
彼の「あ、そうだ」に寺林は嫌な予感しかしなかった。
「よかったら、このまま次行きません?」
「……いいですねえ!!」
寺林の口角は限界ギリギリまで上がった。歯に力が入る。
長津田に肩を組まれ、彼の足はますます家路から遠ざかっていく。
これが融資や返済に繋がればいいが経験で分かる。この男はただ話相手がほしいだけだ。知らぬ顔の上司に対する知らぬ愚痴を聞かされるだけなのだ。
それでもいつかは何かに繋がるかもしれない。そんな淡白な可能性を原動力に彼は身体を動かすのだった。
最初のコメントを投稿しよう!