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埜口哲也が初めて事務所に訪れたとき、最初に対応したのが美晴だった。
伸ばしっぱなしの明るい髪をぼりぼりと掻きながら、Tシャツにジーンズにサンダルといういで立ちでアポなしで現れたその男に、何とか引きつりそうになる顔を抑えて要件を尋ねた美晴だったが――
「ねぇ、ここ、借金とかどうにかできるの?」
「……」
何とか「……先生に確認します」と告げ、そのまま慧にバトンタッチした美晴だったが、その時点から彼女の埜口に対する印象は最悪だった。
……だからこそ、そのあと「まずは話だけでも聞いてみましょう」と応接室へと案内した後、なんとその場で契約までしてしまった慧にはもう、開いた口が塞がらなかった。
「先生……あの時の契約は間違いでしたよ、絶対!」
美晴のそんなセリフにも、慧は表情を変えることなくコーヒーを啜っている。
美晴が慧の視線に気圧されないのと同様に、慧もまた、無遠慮過ぎる彼女の言葉にいちいち反応することはなかった。それが彼女の常であり、その裏には彼女なりの心配が隠れていると分かっているからだ。
……ただ、一度火がついてしまうと止まらないのも美晴の悪い癖だった。
「先生、次あの人が来たら、今度は先生の方からガツンと言ってやってくださいよ! いつまでこうやってのらりくらりやっているんですか、って! 本気で破産する気、あるんですか、って、ねぇ、先――」
「美晴ちゃん」
鈴を転がすような声に、美晴がはたと奈穂子に振り向く。
「もうそろそろ、次のお客さん、来ちゃうんじゃない?」
「あっ、そうでした!」
準備しなきゃ! と、美晴は机の上のお菓子の殻や紅茶を即行で片付けると、書庫から顧客のファイルを取り出し、バタバタと慌ただしく動き始めた。
一方、ようやく美晴の口撃から逃れ、ゆっくりとコーヒーを味わっていた慧だったが。
「先生も、二時から裁判所ですよね?」
応接室を掃除し終え事務所に戻ってきた奈穂子は、慧にもそう声を掛ける。
「え、ええ、はい」
「お寛ぎのところ申し訳ないですが、そろそろ出発されてはいかがです? 混み合う時間帯ではないですが、道路状況も良くないですし、それに、この分だと……また降りそうですから」
奈穂子は窓の外を見やる。
一昨日散々雪を降らせたのと似たような分厚い雲が、さっきまで青く晴れ渡っていた空を侵食し始めていた。
「こんなときに運転するのってほんと嫌ですよねぇ」
彼女はさっきの美晴のようにうんざりとため息を吐く。
「この後、娘のお迎えがあるかと思うと憂鬱です」
「奈穂子さんは生まれも育ちもこちらですもんね」
「ええ。でも先生からしたら、こんなの雪の内にも入らなそうですけれど」
「そんなことはないですよ。雪道の運転は普通に怖いです」
「確かに、こういう半端に融けている日こそ危険だって言いますもんね」
と、奈穂子は思い出したように口元を隠してフッと笑う。
「どうしました?」
「いえ……先生が『怖い』だなんて、意外だったもので」
「そうですか? 僕にも怖いものぐらいありますよ」
慧は用意してもらっていたファイルや資料を確認しながら鞄へと詰め終えると、カップの中身を飲み干した。
「どうぞお気をつけて」
奈穂子に見送られて部屋から出ようとした慧だったが、その背中に元気な声が投げかけられる。
「先生、いってらっしゃい!」
応接室からひょこっと顔を出した美晴に軽く手を挙げて応えると、慧は事務所を後にした。
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