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「突然アポもなしに悪かったね」
およそ三年ぶりに会う兄――朝嶋恒は、記憶にあるのと変わらない、朗らかな声でそう言うとソファへと腰を下ろした。
テーブルの上には湯気を立てるコーヒーが二つ。奈穂子が出してくれたものだ。
二人には先に上がってくれるよう伝え、彼女らは何も聞かずに帰ってくれた。
……といっても、週明けに根掘り葉掘り尋ねられるのは間違いないだろうが。
「へぇ、なかなか素敵な事務所じゃないか」
彼は応接室をぐるりと見まわす。
正直、実家の――つまり、現在は兄が所長を務めている事務所の方がよっぽど重厚感もあって立派なはずなのだが、彼はお世辞なのかそんなことを言って、嫌味のない顔でまたハハ、と笑った。
「……ありがとう、ございます」
「いやいや、やめてくれよ敬語なんて。いくら久々だからって、寂しいじゃないか」
確かにそれもそうなのだが……そもそも、そこまで二人は仲がいい、というわけでもなかった。だが、そう思っているのは慧だけであるかのように、恒は全く含みのない様子で慧にそう促す。
「……」
カップの中に砂糖とミルクを全て入れ、ゆっくりとかき混ぜる男を観察する。
三歳年上の彼は相変わらずこざっぱりとしていて、かっちりめのジャケットとパンツのセットアップも、中年太りとは無縁らしいそのすらりとした体躯によく似合っていた。
美味しそうにコーヒーを啜る彼に、慧はいよいよ聞きたいことを尋ねた。
「今日は、どうしてここに?」
随分と単刀直入だったかなとは思ったが……さっきまではもうすぐにでも帰る気でいたのだ。久しぶりだとはいえ、彼と懐かしい話に花を咲かせるつもりはなかった。
……そしてそれは、恒の方も同様だったらしい。
「随分と急がせるね」などと言いながらも、彼はカップをソーサーへと置くと、膝の上で両手を組み合わせた。
「今日はね、妻の実家に来ていたんだよ」
妻、という言葉に、結婚式でのその人の姿が浮かび上がる。
兄が結婚したのは今から三年ほど前で――つまりその時に彼に会ったのが最後だった訳だが――その結婚は朝嶋家にとっては待ち望みに待ち望んだものだった。
かつての依頼人からの紹介で知り合ったというその人は、兄とは十歳以上も年下の、誰がどう見ても美人というだろうとても華やかな人で、今は主婦業の傍ら、事務所で兄の手伝いをしているらしい。
「出身はこっちのほうなんだね」
「うん。といっても、もう少し郊外のほうだけどね」
兄は少しだけ残っていたカップの中身を全て流し込むと、ゆっくりとそれをまたソーサーへと戻す。
そして、小さな声でこう続けた。
「実は、彼女のお母さんの具合が良くなくてね」
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