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「……えっ」
慧はさっきよりもずっと素っ頓狂な声を上げ、目の前の彼を見つめた。
「ちょ、何言って……」
「いやだって、こっちに引っ越してそこに事務所を構えれば、妻もお母さんも安心できるだろう?」
恒は戸惑う慧を置き去りに、いかにも名案とばかりに嬉しそうに語り続けた。
「とはいっても、同業者の数は向こうの比じゃないし、簡単な事ではないと思うんだ。でも、そもそもの事件数が向こうとは桁が違うからね。こちらも実績のない新米弁護士って訳じゃないし、何とかやっていけるんじゃないかってね」
「まぁ……確かにそうかもしれないけど……」
「それに、ちょうど先日、妻の妊娠が分かってね! で、初めての妊娠に出産、子育てをしていくときに、彼女のお母さんが傍にいてくれたらとても心強いだろう?」
「まぁ、それは……」
「それにさ……余計なプレッシャーのない環境で、のびのびと子育てしたいってのもあるんだよ」
「……」
(プレッシャー、ねぇ……)
それは慧には無縁の言葉だった。ただ、自らに勝手に掛けてしまっていたにはいたのだが。
しかし兄は兄で、耐えず寄越されるその期待という名の重圧に、辛く感じる部分があったのだろう。
……とはいえ、だ。
「兄さんの考えは分かったよ。でも……今の事務所はどうするんだよ。まさか、畳むなんて言わないよね?」
すると恒はさっきまでの朗らかな表情をスッと消し去る。
そして、「もちろんそれは無いけれどもね」と呟いた後、信じられないことを口にした。
「所長についてはそのまま僕でしばらくはやろうかなと思っているんだけど……いずれは、誰かに譲ろうかなと思っているんだよね」
「……え」
「で、ちょうど今、僕の下で頑張ってくれている子が一人いるからね。その子が育ってきたら、そうするのもアリかな、って」
「な……っ!!」
慧はたまらずソファから立ち上がる。
「何言っているんだよ……そんなの、駄目に決まっているだろ!」
脳裏に浮かぶ、兄の結婚式の時ですら帰らなかった実家と、その隣に並び立つ祖父の代から続く事務所。
慧にとっては、どう頑張っても届かない、手を伸ばすことすら叶わなかった場所だった。
そのかけがえのない事務所を、兄は赤の他人に譲ろうとしているのだ。
もちろん、優秀な兄がそこまで言うぐらいなのだから、その下で働いているという彼もまた優秀で、十分信頼に足る人なのかもしれない。
それでも……慧は、兄の言葉をやすやすと受け入れることは出来なかった。
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