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慧は頭に上った血を下げようと、ふーっと長く息を吐くと、ゆっくりとソファへと再び腰を下ろす。
兄はきょとんとした顔でこちらを見つめていた。
「そもそも……父さんは何て言っているんだよ」
結局のところ、慧はこの件に関しては部外者でしかない。
一番は、父がどう思うか、ということなのだ。
「あそこは父さんが兄さんへ譲ったものだろ? それを他の人に、だなんて……いくら事情があったからって父が許すはずがない。それは兄さんだって十分分かっているだろ?」
「……」
「兄さんの奥さんには申し訳ないとは思うけれど、でも、向こうがそう望んできたってわけじゃないんだよね? だったら、そこまでしてあげる必要って無いんじゃ――」
「……慧」
突然、静かに名前を呼ばれる。慧はハッとして口を噤んだ。
幼い頃ならまだしも、ある程度物心がついてからは彼と喧嘩した記憶はない。だから、どの程度までが許されるのか分からないのだ。
だが、恒は焦った表情を浮かべる慧へとそっと微笑んでみせた。
「慧、色々と心配してくれたんだね。ありがとう」
「あ、いや、……」
「で、その父さんのこと、なんだけどね……」
兄が急に声のトーンを落とす。
結婚式のときに少しだけ言葉を交わしたきりの父の姿が浮かび上がった。
久々に会った父は思った以上に年老いていたが、その眼光は相変わらず鋭く、慧は挨拶に毛が生えたような会話をするとすぐにその場を立ち去ったのだった。
そんな父に、何があったというのだろう。
「父さん、どうかしたの? 体調悪いとか……?」
恐る恐るそう尋ねる慧に、恒はフッと笑うと「いや、病気とかそういうんじゃないんだよ」と呟いた後、「いやでも、ある種病気のようなものかもしれないけれどね」と付け足した。
「……どういうこと?」
全く要領の得ない恒の話しぶり。
ただ、そこまで深刻さのない口振りに多少安堵はしつつも、慧は続きを急かす。恒は困ったように笑い、目を伏せた。
「父さんね……ずっと後悔、しているんだ」
「後悔……?」
兄は無言で頷く。慧は首を傾げたくなった。
「後悔」だなんて、いつも自信に満ち溢れているような父には似合わない言葉だと思ったからだ。
「後悔って、一体何に……」
「いや、何、じゃないよ。誰、というべきだね」
「へぇ、人なんだ。じゃあ、その人って……」
「それはねぇ……お前だよ、慧」
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