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「……え」
慧は一瞬にして時が止まったかのように、呆気にとられた顔で兄を見つめる。
「……お、俺?」
「ああ」
つい昔の一人称が飛び出す。兄は深く頷いた。
それでも慧はまだ彼の言うことを信じられないでいた。
大体、父が自分の何に対して後悔なんてすることがあるのだろう。
不審げなままの慧に、恒は僅かに呆れた顔で続きを口にした。
「どうして、って顔しているけどね……本当に分からないって訳じゃないだろう?」
「……」
「そうか……」
恒はハァ……とため息を吐く。
そして、一つぼそりと「昔のことではあるけどもね」と吐き捨てた。
「だって……父さん、ずっと慧のこと、ないがしろにし続けてきただろう?」
兄の目に浮かぶ、憐憫と、それと同じだけの乾いた怒り。
そこでようやく、慧は父の抱える後悔の正体に思い至ったのだった。
「父さんはいつも、頑張る慧を無視するような態度を取ってきた。高校も、大学も、無事に弁護士になれたときでさえ……僕の時とは天と地ほどの差があった」
「……」
「もちろん僕も、ただ見ているつもりはなかったよ。父さんを変えようとしたこともあった。でも、父さんは聞く耳を持たなかった。と、いうか……『そうしなければならない』という使命感みたいなものすらあってね」
「……?」
「で、ここからは僕の推測でしかないけれど……きっとその原因はおじさんにあるんだと思う」
「……それって正おじさんのこと?」
兄は黙って頷く。
今まで数えるほどしか会っていない、父の弟であるその叔父の顔は朧気だったが、今でも他県で弁護士をやっているということだけは分かっていた。
「昔、おじいちゃんが生きていたとき、一度だけ、聞かされたことがあったんだ」
どこか遠い目で、恒はその時のことを振り返る。
「おじいちゃん、しみじみこう言っていたんだよ。正おじさんと父さんと二人で、ここを継いでほしかったって」
「二人で……?」
まったく予想外の答えだった。まさかそんな構想があったとは思いもしなかった。
「で、実際、おじいちゃんの下、二人で働いていた時期もあったらしいんだけどね。でも、色々と意見のぶつかることも多くて、結局はおじさんが出ていく形で父さんが継いだんだって」
「……そう、なんだ」
「最初は二人とも弁護士になってくれて嬉しかったけれど、こんなことになるなら、一人は普通のサラリーマンになってくれたほうが良かった――そう悲しそうに呟いていたよ」
兄はまたふぅ……と長くため息を吐いた。
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