427人が本棚に入れています
本棚に追加
/305ページ
慧はあんぐりと口を開け、目の前の楽しげな男を見つめた。
(さっきから何を言っているんだ、この人は……!?)
ここに引っ越してきて事務所を構えるという話をされたときからそうだったが、とにかく常軌を逸しているとしか言えなかった。
完全に引いてしまっている慧に、恒は構わず喋り続けた。
「慧の気持ちは分かるよ。急にそんなこと言われても、って思うよね」
「……」
「でも、よくよく考えてみてほしいんだ」
「いや……何をどう考えればいいんだよ」
彼の提案は突拍子もなく、あまりに身勝手だった。何もかも彼にとってのみ良いようにされていて、慧のことなど少しも考えられていない。
恒は「そう喧嘩腰にならないでくれよ」と眉を下げる。
そして、「そこまで悪い話でもないんじゃないかな」と続けた。
「……は?」
「だってさ、慧は昔から憧れていただろう? 家を継ぐってことに」
「……っ」
どくん、と胸が激しく脈打つ。一瞬、頭が真っ白になる。
その後すぐカッと顔に血が上り、慧はそれを見られないように慌てて顔を伏せた。
兄はその様子をくすりと笑うと、「隠さなくたっていいよ」と慧に語り掛けた。
「いつだったかな、慧がまだ小学生の時かな。将来の夢について作文を書いてくるっていう宿題があったの、覚えてる?」
「い、いや……」
「そう? 僕は覚えているよ、鮮明に」
恒は嬉しそうに、俯いて固まっている慧を見つめた。
「慧に手伝ってって言われてね。ほら、昔は作文、苦手だっただろう? で、慧、こう書いていたんだよ。『僕は、父さんのような立派な弁護士になりたいです』って」
「……」
……彼の言うその作文を、覚えていないわけがなかった。
あれは小学校一、二年生の時だったと思う。よくあるテーマで出された課題作文で、慧は既定の枚数に全く足りず、ここからどう膨らませたらいいのか分からずに兄に泣きついたのだった。
そこまではっきり覚えているのだ。自分がその後に何と書いたのかも、忘れるなんてあり得なかった。
「ほんと、それだけでも素晴らしいのに、また最後がねぇ……本当に覚えてない?」
「……」
「確かね、こう締めくくられていたんだよ。『父さんのそばで、困っている人をいっしょに助けたいです』ってね。僕はそれはもう感動して、そのまま思ったことを素直に書けば十分だよって返したんだよね。今でも昨日のことのように覚えているよ」
恒は懐かしむように目を細めると、全く役に立たないポーカーフェイスを貼り付けたまま視線を落とす慧へと、ゆっくりと微笑んでみせた。
「でも、僕がいたせいで、慧には残念ながらそのチャンスが無かったわけだけど……これこそが運命のいたずらってやつなのかな。そう、今がそのチャンスなのかもしれないね」
兄のその言葉は、自信家で自己中心的な彼らしい、善意からのみ寄越されたものだった。
最初のコメントを投稿しよう!