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「なんであんなに揃いも揃って話が長いかなぁ……」
以前勤めていた弁護士事務所、そこの所長が現役を引退するとのことで開かれたパーティーから抜け出した慧は、そんな愚痴をこぼしながらいつもの道をとぼとぼと歩いていた。
日曜日ということもあり、本来なら仕事も休みのはずだった。だが今日に限って午後から開けることにした理由の一つが、このパーティーを途中退席する口実が欲しかったからだ。
もともとその所長自体話が長く、やたらと体裁にこだわるところがあった。自分に声が掛かるぐらいだから招待客の数も相当なものだと踏んでいたが、まさかお偉方のスピーチだけで一時間を要するとは……。
すっかりくたびれ果てた慧は、一歩一歩踏みしめるように事務所へと続く階段を上っていく。途中すぐ、エレベーターを使わなかったことを後悔した。
一段昇るごとに疲労が圧し掛かるように思えるのは、決して今日のパーティーだけが原因ではなかった。
ここしばらく、満足に眠れていないのだ。
突然兄が顔を出したあの日から数週間、彼からの連絡は全くなかった。
きっと気まぐれな兄の思い付きだったのだろう、そう結論付けようとしたときだった。
「妻が出産したら、例の件、動き出そうと思うんだ。だから、慧もきちんと考えておくようにね」
さも当然のように慧にそう言って聞かせた後、彼は聞いてもいないのにべらべらと妻の近況を好き勝手に話すと、満足したのか電話を切った。
何が「考えておくようにね」だ。
この事務所を手放すなんてやはりあり得ない話だった。
例の所長の元から真っ先に独立してから、様々な苦難を乗り越えて皆で作り上げてきた事務所なのだ。いくら実績もあり能力の高い兄であっても譲り渡すなんてとんでもない。
それなのに……脳裏にちらつくのは、三年前に会ったきりの、年老いた父の姿。
そして、いつかの実家の事務所の風景だった。
柱の陰から覗き見た父は、一人きりの事務所で黙々と仕事をしていた。
話しかけづらい雰囲気だったのもあるし、自分が話しかけようものなら嫌な顔をされるのは分かり切ったことだったので、慧はしばらくしてからそっとその場を離れた。
でも、その父の姿はこの通り、数十年たった今でも脳裏にこびり付いて離れないままだった。
慧は足を止める。
もしかしたら、タクヤはどこかで感じていたのかもしれない。慧の中に巣食う、消えることのないコンプレックスを。誰か――いや、父に認めてもらうまで埋まらない、大きな空洞を。
それでも、必死な自分を哀れに思ったのか、ひとときの夢を見させてくれたのだ。
そして、当初の予定通り、去っていったのかも――
その瞬間、ぐらりと視界が回転する。
まずい、という焦りとは真逆に、身体から力が抜けていく。
意識はふっと遠ざって――
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