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「先生!」
頭の上から聞こえた悲鳴に、慧は飛びかけていた意識を呼び戻し、慌てて階段の手すりを掴む。
傾きかけていた身体はそれで何とか押し留まり、すんでのところで階段を転げ落ちるのを免れたのだった。
「だっ、大丈夫ですか!?」
たたた、とヒールを鳴らして駆け降りてきたのは、黒い服に身を包んだ、小柄な女性だった。
「は、はい、大丈夫、です……助かりました」
慧は額を流れ落ちる冷や汗を拭うと、慧以上に顔色を悪くした女性を見上げる。よく見るとその黒いワンピースは喪服のようで、一つにまとめた明るい髪が、夕日一歩手前の日差しを反射して眩しいほどだった。
慧と同年代ぐらいだろうか。女性は大きく息を吐くと「あーもうメイクが落ちちゃう」と鞄の中から取り出したレースのハンカチで自分の顔を押さえる。
確実に初対面であるはずのその女性はだいぶ主張の強いメイクを施してはいたものの、しかしどこか見覚えのある顔をしていた。
「もう先生、心臓が止まるかと思いましたよ!」
「いやすみません、本当に」
「今日、先生に色々お伝えする前に私や先生がどうにかなりでもしたら、お父さんもうかうか成仏なんてしていられませんからね」
「……お父さん?」
突然出てきたその言葉を慧は思わず繰り返す。つまりは彼女はかつての依頼人の娘、ということなのだろう。
でも、慧の事務所の顧客はどちらかといえば落ち着いた雰囲気の人がほとんどで、元気なタイプの顧客は、例の埜口さんを除いてはそうそういないはずだった。
一体誰なのだろうと、まじまじと彼女の顔を見つめる慧に、女性は「すみません、ご挨拶がまだでしたよね」と眉を下げた。
「私、前野と申します。以前、破産の件で先生に大変お世話になった、前野庄造の娘です。覚えていらっしゃいますか?」
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