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「どうぞ」
「失礼します」
事務所へと案内すると、彼女はきょろきょろと興味深げに辺りを見回しながら、促されるままに応接室のソファに腰掛けた。
慧は先ほどのパーティーで持たされた諸々の手土産を適当に自分のデスクへと置き、給湯室へと向かう。
インスタントコーヒーを二人分のインサートカップに振り入れてお湯を注ぐ。ホッとする香ばしい匂いが狭い空間に広がった。
(あの人、前野さんの娘さんだったのか)
彼の顔はすぐに思い出すことができた。それもそのはず、事件が終了してから半年も経っていないのだ。だから、まだ彼については資料を読み返さなくとも覚えていることは多かったのだが。
(なんだ、娘さんと繋がりがあったんじゃないか)
彼は随分と昔、連帯保証人になる少し前に一度、結婚をしていた。
そして、彼の借金の原因である男が夜逃げし、取り立てが前野さんに行くようになってから数年後には離婚してしまっていた。
まさに借金のせいで何もかも失った彼だったが、その後も子供との縁が切れていなかったというのは救いだった。
だが、彼女はさっき、何と言っただろう。
『お父さんもうかうか成仏なんてしていられませんからね』
(まさか、前野さん……亡くなったのか)
確かに、折れた腰ややつれた頬は彼を年齢よりずっと年上に見せていたし、実際、体調も決して良さそうには見えなかったが……それにしても既に彼が故人であるというのは信じがたく、胸に何とも言いようのない寂しさが込み上げる。
本当に最後の最後まで、人に頼ることを良しとせず生きてきた彼。
これからまさに、自身の人生を再び歩もうという矢先だっただろうに。
免責審尋の日、送りますよという慧の申し出を丁重に断り、降りしきる雪の中を去っていった後姿が蘇る。
と、同時に――
(ああそうだ、あの日は……)
酷い天候と悪路の中、事務所へと車を走らせていた慧。
そんな中、一台の車がスリップし、こちらへと迫ってきた。
慌ててハンドルを切った慧は雪の積み上げられた路肩へと突っ込み、何とか大事故を免れはしたのだが……視界が真っ白に塗り潰される直前、一瞬だけ映った人影。
急いで車を降りて歩道へと向かうと、そこにいたのは――
「あの先生、気を遣わないでくださいね!」
応接室から飛んできた元気な声に、慧ははっと意識を戻す。
出会った日の「彼」の姿を消し去るように、慧は小さく頭を振った。
さっき階段を転げ落ちそうになる前に気付いたこと、それが真実だったなら、タクヤが自分の元を離れていったのは思い付きなどではなく必然だ。
あの後、彼から一切の連絡が無いのがその証拠だろう。
(いつまでこうしているつもりなんだろうな、俺は)
慧は二つのカップと奈穂子が用意してくれている茶菓子セットをトレーに乗せると、彼女の待つ場所へと足を向けた。
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