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「あ、あの、すみません、何か失礼なことを――」
「ちがうんです!」
彼女はきっぱりとそう言うと、さっき汗を拭っていたレースのハンカチで目元を押さえる。
そして、すんと鼻をすすると、涙に濡れた目をそっと細めた。
「先生の、感じが……ほんと、父から聞いていたのとそのままだったので。だからかな……父が先生と話している姿が、目に浮かんできちゃって……情緒不安定でごめんなさい」
「いえ……」
「もう飽き飽きするほど泣いたんですけどね」
彼女はそう付け加えると、濡れたハンカチを鞄へと戻した。
「父は、ああ見えて結構、頑固なところがあったんです」
あれからだいぶ落ち着いた彼女は、ぬるくなったコーヒーを一口飲むと、ゆっくりと彼女の父について語り始めた。
「こう、って思ったらそれ以外は認めない、そんな感じでね」
「へぇ……」
「意外でしょ?」
彼女の言う通り、前野さんにはそういうところはあまり感じられなかった。
むしろ素直でやり易いぐらいだったが――
彼女は分かりやすい慧の表情に口元を緩めつつ、話を続けた。
「実はね先生、うちの父、昔に一度……他の先生の所で債務整理をしようとしたこともあったんです」
「そうなんですか?」
「でも結局、相談だけで終わってしまったんですけどね」
「どうして依頼まで行かなかったのですか」
慧は思わずそう単刀直入に尋ねてしまったのだが。
彼女もまた特に隠すつもりはないらしく、「父のその性格、ですよ」と眉を下げた。
「その弁護士さんに言われたそうなんです。債務整理より、いっそ破産してしまったほうが楽ですよ、って。もちろん、それはそうですよね。他人の借金を背負って、稼いだそばから返済に充てて……もうその頃には母とも離婚してたし、破産したら続けられない仕事でもなかったし。その弁護士さんの提案は全然、間違いなんかじゃなかったんです。むしろ、父を思ってのものだったんだと思います。でも……」
そこで彼女は一旦口を閉ざす。
そして、わずかにふう、と息を吐いた。
「父は、失いたくなかったんです……父が建てた、あの家を」
「あの家、というのは、あの白い外壁の……」
慧の言葉に、彼女は静かに頷いた。
「小さいし、大分年季の入った家だけど……でも、父からしたらあの家はきっと、私たちと過ごした思い出が詰まったかけがえのない家だったんだと思います」
彼女もまたその家を思い返しているのだろう。
遠くを見るような目をしていた。
「だからその破産の提案をもらったとき、家を残すのは難しいって言われて、うんとは言わなかったんでしょうね」
「なるほど……」
以前、懇意にしている不動産会社の人と前野さんの家を直接見に行ったことがあった。
確かに彼女の言う通り、こぢんまりとした築年数の経った家だったが、同行した彼は「でも立地がそれほど悪くないんだよなぁ」と、評価額を出すのにうんうん悩んでいたのを思い出した。
「では、どうして今回、破産することに納得されたんですか」
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