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それから少し、前野さんの思い出話や、飲食店をやっているという彼女の仕事の愚痴を聞かされたりした後、彼女(留実さんというお名前とのことだった)は壁の時計を見るなり、「え、もうこんな時間なの!?」と叫び、勢いよく椅子から立ち上がった。
「先に帰した旦那に、またどこほっつき歩いていたんだって怒られちゃう」
そんなことを言う割に、彼女の表情は楽しげで。聞けばまだ結婚して1年程度の新婚なのだそうだ。
「先生みたいなザ・男前って感じじゃないけど、十歳近くも年上の私が可愛く見える貴重な人なのよ。だから大切にしてあげないとね」
多分先生と同じくらいの歳かしら、と年齢を尋ねてきた彼女に「36です」と返すと、案の定「えっウソごめんなさい、先生ってそんなに若かったのね」と驚いていたが……それよりも、自分と同じぐらいかと思っていた彼女がそんなに年上だったことのほうがより驚きだった。奈穂子しかり、女性の年齢というのは分からないものだ。
「今日は突然お邪魔して、すみませんでした」
「いえ、こちらこそ、お気遣い頂きまして」
「そんな、大したものじゃないですってば。それになんか私、弁護士先生相手にずいぶんと偉そうなこと言っちゃったかも」
彼女はごめんなさいね、と首を軽く傾けると、玄関のドアを開ける。
窓から覗く空は、紺と桃色の入り混じったような、しかし透き通った色をしていた。それにしても日が長くなったものだと思う。
「先生、どうかお元気で」
彼女は朗らかにそう言うと、階段をカツカツとヒールを鳴らして降りていく。
彼女の姿が見えなくなるまでと見送っていた慧だったが。
「あっ、そうだ!」
彼女はそう声を上げると、慧の方を見上げた。
「そういえば先生って、今の時間、誰かとの予定とか入れてたりしませんよね?」
「……予定、ですか?」
唐突過ぎる質問に、慧は流石に怪訝な顔をする。
一体どういうことだと思いはしたが、とりあえずその質問には素直に「はい、誰とも」とだけ答えたのだが。
すると彼女は、「そうですよねぇ……」と言いつつも、何かを考え込むようなそぶりをした。
「あの、留実さん?」
「あっ、ごめんなさい。実はさっき、昔よくお店に来てくれていた人、ここのビルの前で見かけた気がしたんです」
「は、はぁ……」
「どうにも名前が思い出せなくて。でも、結構カッコイイ人だったから印象には残ってて……で、その人、じーっとこの事務所の方を見上げていたから、何か用事でもあるのかなって思ったんだけど……でも、私の気にしすぎだったみたいですね」
ヘンなこと言ってごめんなさい、と彼女は慧をもう一度仰ぎ見ると、今度こそ失礼しますね、と再び階段を降りようとした、のだが。
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
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