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「修理はこちらで以上になります」
「はい、ありがとうございました、助かりました」
「もしまた不具合が出ましたらご連絡ください」
それでは失礼いたします、と大きな荷物を手に去っていく修理業者を見送ったタクヤは、ふとドアの向こうの空を眺めた。
ここ数日調子の悪かった給湯器を直すため、いつもなら夜まで営業している日曜日を夕方の予約までで切り上げた。
いつの間にか随分と日が長くなっていたらしい。夕日は眩しいほどで、まだまだ賑わう休日の街を鮮やかに染めていた。
「それじゃあ帰るか」
普段であれば週の締め作業やら何やらで夜遅くまで残っているところだが、今日はそれらも全部、修理の合間に片づけてしまった。
滅多にない日曜夜の貴重な時間だ。買い物をするでもいいし、家に帰ってのんびりするでもいいだろう。
タクヤはあちこちを施錠しながらそんなことを考えていた。
……だというのに。
「……」
地下鉄の長い階段を昇り終え、タクヤが足を踏み入れたのは、普段よりは人気のないビジネス街だった。
目的地は一つだけ。かつて一度だけ訪れたことのある、とある雑居ビルだった。
そう……あの冬の日も、片手にはスマホ、もう一方の手には先生から借りたセーターをぶら下げて、この道を歩いたのだ。
まさかあの時は、先生と(自分が付けた条件付きとはいえ)付き合うことになるだなんて思ってもみなかった。
そしてまさか、「こんな状況」になるだなんて、想像すら出来なかった。
ビルとビルの合間から覗く、「あさじま法律事務所」の小さな看板。
さっきまでは焼けるように赤かった空には少しずつ夜の気配がにじみ出している。
目当てのビルの上には、ひときわ輝く一番星がぽつんと瞬いていた。
「……っ」
タクヤは何故か胸がぎゅっと締め付けられるような気がして、歩む足を止めてしまった。
そして……本来はこの曜日はやっていないはずの彼の事務所に、煌々と明かりが灯っているのに気が付いたのだった。
じり、とアスファルトを擦る自分の靴の音が、一層人気のない路地に響く。
決して彼に会いに来たわけじゃないのだ、今日が休みだと知っていたのだから。じゃあ何のために来たのかと言えば、自分でもよく分からないのだが……でも今、彼がそこにいるという事実だけで、タクヤの心臓は激しく脈打ちだしてしまう。
会ってもいいのだろうか、先生に。
事務所の方をじっと見ながら、しかしタクヤの足は、それ以上は何か見えない壁でもあるかのように、一歩として前に進んではくれなかった。
この間、誰もいない店で一人考えていたことがまた過ってくる。
心に大きな虚ろを抱えながらも、一生懸命、タクヤに愛を注いでくれた慧。
そんな彼を散々彼を振り回し、傷付け、そして身勝手に去っていったのは紛れもなく自分だ。
このまま会わず、彼の人生の一ページみたいな扱いになった方が、ずっと彼にとっては幸せだろう。
というより、もう既にそうなっているのかも――
「……」
タクヤはもう一度だけ、事務所の灯りを見つめる。
これが最後。そんなつもりで目に焼き付けたつもりでも、きっとまた性懲りもなくここに来てしまう気もしたが……それでも、しばらくは今日のように「間違って」ここに来てしまうことは防げるかもしれない。
そうして、今度こそ完全に踵を返そうとしたのだが。
「……あれ?」
ビルの前に佇む、一人の男。
その男はまるで今のタクヤのように、慧の法律事務所をじっと見上げていた。
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