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男はタクヤの視線に気付くことなく、うろうろとビルの入り口辺りを右往左往している。
雑居ビルとはいっても、一階に理容室、二階は税理士事務所が入っているだけで、そのどちらも灯りが消えているということは定休日なのだろう。
ということは、その男の目当てはほぼ間違いなく、先生の事務所ということだ。
ふと、タクヤの脳裏に蘇ったのはある日の先生との会話だった。
「この仕事のせいで危険な目にあったこと、ですか?」
タクヤが興味本位でしたその質問に、慧は「そうですね……」と顎に手をやると、「危険、というほどのことは無いですが、多少は」と呟いた。
「例えば、相手方の闇金から脅迫まがいの電話が掛かってきたり。相続や離婚調停中の相手方が突然事務所にやってきたこともありましたね。まぁ、以前勤めていた事務所は、弁護士も複数人いましたし扱う事件数も多かったので、十分在りうることではありましたが」
慧はこともなげにそう言うと、「ああでも、幸い今の事務所になってからはありませんけどね」と付け足した。
(もしかして、あいつ……そういう目的、じゃないだろうな?)
タクヤは男をつぶさに観察する。
挙動不審な男は、相変わらず入口の辺りをこそこそと徘徊していた。
タクヤは一つ、大きく深呼吸をする。
そして、意を決して足を前へと進めた。
悪いことをしているわけでもないのに、タクヤは足音を消すようにして男へと近付いていく。
そのおかげなのか、それとも単に周りのことなど気付く余裕も無いのか、男は忙しなくバッグから何かを取り出してそれを眺めては仕舞う、という動作を繰り返していた。
だが、帽子を被っているのとこの薄暗さのせいで、男の顔までは見えなかった。
そうして、とうとう気付かれないまま、彼の傍にまで辿り着いてしまった。
「すみません」
そう声を掛けたのと同時に、男が振り返る。
帽子の下、タクヤより少し背の高い男の顔を見上げた、その瞬間。
タクヤは言葉を失った。
「あっ、あなたは……!」
それは今から二十年ほども前――
タクヤが初めて、母以外に髪を切ってもらったその人だったからだ。
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