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金曜日の夜、賑わう都会の街。
タクヤはそんなネオンの輝く見知らぬ土地を一人歩いていた。
「ごめんね……もう母さん、タクヤの髪、切ってあげられないの」
母は入院先のベッドの上で、力なくそう呟いた。
ふっくらしていた頬はこけ、しっとりと柔らかかった手も骨と皮だけになってしまった母を見れば、そんなことわざわざ言われなくても分かる。
それでも、いざ本人の口からそうはっきり告げられるショックというのは計り知れないもので。
震える手で五千円札を手渡してきた母から半ばひったくるようにしてそれを受け取ったタクヤは、「また来るから」といつもの台詞だけを残して病院を後にした。
祖父母が死に、母の身体がこうなってからというもの、タクヤはずっとバイト漬けの日々を送っていた。
だから母からのお金なんて無くたって何も困りはしない。髪ぐらい、時間さえあればいつだって切りに行けた。それを、こんなに肩に付きそうなほど放置した理由は一つだけ。
それなのに……。
心の奥に秘めた願いを、こうして当の本人から、もう無理なのだと突きつけられてしまった。
五千円をきつく握りしめたまま、タクヤは病院の外でじりじりと焼けるような真夏の太陽を浴びていた。
そして――その足で向かったのは、誰もいない自宅ではなく、駅前のバスプールだった。
目的地に着いた時には既に日は落ちかかっていた。暴力的な日差しのかわりに、むわりとした夜の空気が身体にまとわりつく。
「……」
タクヤは財布から、縁がよれよれになった古びた名刺を取り出し、じっと見つめた。
そこに印字されていたのは、とある美容室の名前と、男のフルネームだった。
母が長く入院すると決まり、必要な荷物をまとめるついでに部屋を整理していたときに出てきたそれ。
押し入れの中、しわくちゃの紙袋に包まれた古びた黒いバッグ。その内側のポケットに、ひっそりとそれは仕舞われていた。
「ねぇ母さん。僕の父さんって、どんな人?」
ずっとずっと昔、無邪気に問いかけた自分に、母は一瞬、口を閉ざした後。
遥か遠くを眺めるような目をして言ったのだった。
「タクヤの父さんはね――」
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