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「こちらのお席になります~」
さっきの死にそうな顔色から一転、足取りも軽くなった彼女に案内され、タクヤはあれよあれよと準備を整えられていく。
やたらと明るく見える鏡には、ぼさぼさの頭に、愛想の欠片も無い顔をした男が映っていた。それがあまりにも周りのきらきらとした客層と浮いていて、タクヤは居心地の悪さに顔を伏せていたのだが。
「お客さん」
しばらくしてそう低い声に呼ばれ、こわごわと顔を上げる。
そこにはあの「店長」と呼ばれた男が映っていた。
「で、今日はどうしますか」
ぶっきらぼうにそう聞かれ、そこで初めて、タクヤは何らかの希望を言わなきゃいけないんだ、ということに気が付いた。
今までは母が伸びた分を切ってくれていたが、当然だがここではそうもいかない。だからといって、何か「こうしてほしい」というものがあるわけでもなかった。
そもそも、髪を切ること自体が目的なんかじゃなくて――
「お客さん?」
タクヤはハッとして鏡の中の男を見つめる。
男は一瞬、怪訝そうな顔をしたのだが。
「まぁ、希望が無いっていうなら、おまかせにしますか」
そんな男の提案に、タクヤは一も二もなく頷いたのだった。
シャクシャクと小気味よい音が頭の回りから聞こえてくる。
母の音と変わらないように聞こえるそれは、しかし母よりももっとスピード感があって、その手さばきはマジックでも見ているみたいに軽やかで。タクヤはついつい釘付けになってしまった。
服の上に掛けられたケープの上を何度も毛束が滑り落ちていく。
彼の頭の中にははっきりとした完成形があるのだろうが、今の時点ではそれが何かは分からない。タクヤはされるがまま、彼の手の動きだけを相変わらず見続けていた。
「……お客さん」
突然掛けられた声に、タクヤは慌てて視線を鏡の中の男の顔へと合わせる。
男は一瞬だけタクヤと視線を交わらせると、「ちょっと聞いてもいいかな」と続けた。
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