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「君がさっき、手に持ってたもののことだけど」
「……?」
「……名刺だよ、名刺」
「……!!」
タクヤは咄嗟に手をズボンのポケットへと突っ込もうとして長いケープに阻まれてしまった。ただ、その上から触れても固い感触は伝わってきて、タクヤはとりあえずほっと息を吐く。
母が人目に触れないよう大切に保管していた名刺。万が一にも無くすわけにはいかないそれを、タクヤは最初に出迎えてくれたスタッフの人と話している最中にポケットにしまったのだ。それを男は目ざとく見つけていたらしい。
そんな母の貴重な品について、男はさらにフンと鼻で笑った。
「にしても、あんな古いデザインのヤツ、よく持っていたな。誰かからもらったの?」
「あっ、は……はい」
「誰に?」
「ええと……母です」
「あ、そう」
男はそれきり、また黙って髪を切り始めた。
迷いのないその手の動きをぼうっと眺める。
だが、そこでタクヤはふと、あの日の母の言葉の続きを思い出した。
「タクヤの父さんはね……母さんの、先輩の美容師だったの」
タクヤの髪を梳きながら、母は懐かしむようにそう言った。
「へぇ~! じゃあ、ショクバケッコン、ってやつだったんだ!」
「あんた……そんな言葉どこで覚えたの?」
タクヤの背後で母はそう言ってふふ、と笑うと、シャクシャク、と襟足を整える。
タクヤは目を輝かせながら、鏡の中の母に尋ねた。
「ねぇ、父さんってどんな人だったの?」
「どんな人、って言われてもねぇ」
母は手は止めないものの、うーん、と眉を寄せる。
タクヤは「ねぇ、早く!」と鏡に前のめりになり、「ちょっと、動かないの!」と注意されてしまった。
そんな息子の様子に、彼女はふう、と一つ息を吐く。
そもそもこうなってしまった原因は、自分がつい「彼」の話題に答えてしまったことにある。彼女は諦めた顔で語り始めた。
「まぁ……良くも悪くも、すごく人を惹きつける人だったわねぇ……今だったらそうね、カリスマ性があるとか言うのかしら」
「へぇ……」
「この人についていきたい、そう思わせるところはあったかもね」
「……」
「だから、あんたにはまだ早いのよ」
母はそう言って打ち切ろうとしたのだが。
タクヤはどうにかして話を続けようと、「じゃあ、見た目! 見た目は!?」と後ろを振り向こうとして、「じっとしてなさい!」と怒られる羽目になった。
「だって、気になるんだもん」
「……」
しょぼんとしてみせたタクヤに、母は口ごもる。
そして、観念したようにもう一度深く息を吐いた。
「まぁ、あんたにも理解できる言葉でいうと……まぁまぁイケメンではあったわね。背も高くって」
「……」
タクヤは鏡の中の男の姿を、今一度まじまじと見つめた。
あの後、タクヤが「なんだ、結局顔なんじゃん!」と言ったことで更なる母の怒りを買い、げんこつと共にその話は終了となってしまい、その後話題に出ることも無かった。
……が、まさに今、その時母が話していた通りの人物が、目の前にいるのだ。
職場の先輩。年は取ってはいるが、顔は間違いなく整っている。そしてこの高身長――
(まさか、この人が……!?)
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