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外の気温は数時間前より幾分か落ち着いていたが、それでもまだまだ湿度の高い空気が、タクヤの露わになった首筋を撫でていく。
タクヤは無言のまま、同じく黙ったままの男の後を付いていく。
男の背中は大きく、父親がいたらこんな感じだったんだろうか、なんて思った自分に驚いた。
でも実際、本当に彼の兄が父なのだとしたら、彼はタクヤのおじ、ということになる。そんな想像をしてしまうのも仕方のないことなのかもしれない……と、そんなことを考えていたとき。
男がゆっくりとこちらを振り返った。
「今日は、ありがとう」
最初の時の刺々しい雰囲気は今はもうなくなっていた。
「い、いえ……」
「お母さんによろしく……は、しないほうがいいんだろうな」
「……」
タクヤはやはりどう反応したら分からなかったが、男はタクヤの答えを待たず、「まぁ、適当に返しておけばいいさ。美容師辞めて、世界中を旅しているんだ、とかね」と軽口をたたいた。
「帰りは地下鉄?」
「あ、は……はい」
「もう遅いから、寄り道しないで帰れよ?」
「……はい」
朝までバスも無く、カラオケとかで一夜を明かそうとしていたタクヤは、彼の目を見ずにそう小さく返事をした。
……と、男が距離を詰める気配がして、タクヤは顔を上げる。
男はおもむろにタクヤの手を取ると、冷たく、固い何かを握らせた。
「……!」
タクヤの手の中にあったもの。それは、小さなガラスの瓶に入ったワックスだった。
「あ、あの、これ……っ」
「ああ、最後に使ったヤツさ」
男はそう言うと、タクヤの髪を一束、指に取る。
「ちゃんと使いこなして、俺の作った髪型、いい感じに再現してくれよ」
男はそう言ってにやりと笑うと、風で少しだけ乱れた前髪を直してやった。
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