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だが、そんなタクヤの事情など知らない男はというと。
「先生ってのは……ここの先生?」
男は背後のビルを指さす。
「……はい」
聞こえるか聞こえないか程度の声でタクヤがそう返すと、男は突然、きょろきょろと辺りを見回した。ここに来た時同様通行人こそいるものの、こちらに関心を向けている人なんていやしないのだが。
「先生に会いに来た、っていうのは……まぁそういうこと、だよな」
男はぶつぶつと呟くと、もう一度窓のほうを見やる。
そこにはまだ煌々と明かりが灯っていた。
「残念だけど、今は難しいだろうよ。俺たちと同類かな、黒い服を着た女の人が上がっていったのを見たからね」
「同類……美容師ってことですか?」
「いや、依頼人、ってことよ」
男は完全にタクヤをそうだと思い込んでいるらしかった。
「タイミングが悪かったね、お互い。ただ、あれから結構経っているから、もう少し待てばチャンスがあるかもよ?」
そんな男の発言に、タクヤは「ん?」と眉を寄せた。
「いや、あなたは?」
「俺がどうかした?」
「いやだって……さっきの話だと、しばらくの間ここで待っていたってことですよね?」
「や、それほどじゃないけども」
「だったら俺よりまず、あなたが行くべきでは?」
「……」
タクヤの正論に、男はしかし頷くことはなく、ゆっくりと首を振った。
「いいんだよ、俺は。急ぎの用でもないしさ」
「いやだからって、」
「それよりさ……君のほうがよっぽど、深刻そうじゃない?」
「……え」
「どうして分かったかって?」
男はそこで言葉を切ると、タクヤの目の奥を覗き込んだ。
「そりゃ、そんな顔していりゃ、ね」
「……っ」
タクヤは縫い付けられたように固まり、言葉に詰まってしまう。
「ほーら、やっぱり図星だろ?」
得意げな男に、タクヤは何とか首を振る。
「い……いやでも、俺は本当に今じゃないといけないってわけじゃなくて、」
「だったら俺のほうがそうだよ。君、もちろん現役だろう?」
「現役……まぁ、そうですけど」
「俺は毎日が日曜日、いや、月曜日みたいなもんだからさ」
男はそう言うとへらりと笑った。
「えっ……美容師、辞めたんですか」
タクヤは目の前の彼をまじまじと見つめた。
確かにあれから二十年ほど経って、間違いなく歳は取っている。だからといって美容師ができなくなるほど老いているなんてことはなく、むしろ、あの時の人を寄せ付けないような雰囲気からがらりと変わったせいか、ずっと若々しくも感じられた。
「どうして……」
「そうやって惜しまれつつ辞めるぐらいがカッコいいだろ?」
男はまたうっすらと笑うと、そのままその場を立ち去ろうとした。
と、その時。
軽快な着信音が男の背後から聞こえてきた。
「なんだ? デートの誘いかな」
男はそんなことを言いながら、ジーンズの尻ポケットからスマホを抜き取ろうとする。
が、次の瞬間。
「いっ……!!」
ガツン、と激しい音を立て、スマホがアスファルトに転がる。
タクヤは反射的にしゃがむと、落ちたそれを拾い上げた。
液晶自体は問題ない様子だったが、画面はバキバキに割れていて、今の衝撃で付いたものだけではなさそうだった。
見上げると、男は右手で左手を押さえるようにして顔を顰めていた。
「大丈夫ですか」
「うん、ありがとう……」
男はタクヤからスマホを受け取ろうと手を伸ばし……はっと目を見開いた。
「もしかして、君……!」
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