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「ああ、ようやく言えた」
男はふぅ……と長く息を吐く。
「あの日からずっと、胸の辺りでわだかまっていたことだったんだ。それがこうして、直接君と話をするチャンスが来るだなんて……こういうのが奇跡って言うんだろうな」
男は余程嬉しかったのか、しみじみと噛み締めるようにそう呟いた。
「これは先生にも感謝しないとだな」
男は窓の外を見やる。つられてタクヤも視線を向けた。
ビルの隙間から覗く慧の事務所にはまだ明かりが灯っていた。
(先生……)
そういえばさっき、彼が言っていたことを思い出す。
『残念だけど、今は難しいだろうよ。俺たちと同類かな、黒い服を着た女の人が上がっていったのを見たからね』
本来は開けていないはずの日曜日。そこに招き入れられた女性――
以前、慧はこう言っていた。基本、依頼人の方などとお会いするときは、極力、自分とその人との一対一にならないようにしているのだと。
「安全管理上というのももちろんありますが……僕のこの見た目のせいか、特に女性の方は委縮してしまって、話が出来ないこともありまして」
酒をちびちびと飲みながら、慧が困ったように笑っていたのを思い出す。
(ってことは、つまり……あの人は依頼人じゃない、ってことだよな。でも、だったら彼女は――)
その瞬間、みぞおちの辺りがつきりと痛んだ。
どんな女の人だったんだろう。若いだろうか、それとも自分と同じくらい、もしくは年上だろうか……先生とは一体、どういった関係なんだろうか。
先生は、先生自身をゲイだと思っている。タクヤと付き合っていた時を思い出しても、きっとそれは間違っていない。
でも……果たして本当に、男だけ、なのだろうか。
単純に経験が無いというだけで、もしかしたら、女性とだって――
「ちょっと、大丈夫?」
埜口の低い声に、タクヤはびくりと身体を震わせる。
「あっ、は、はい、全然大丈夫、です」
「そう言うけどさ。やっぱりなんだか、相当思い詰めているみたいだけど?」
「別に、そんなこと……」
「そんなに難しい依頼なの?」
「いや、というかそもそも依頼とかではなくて……あの、埜口さん?」
「……」
急に口を閉ざした埜口は、しばらくの間、じーっとタクヤの顔を眺めた。
「あの、な、何ですか急に」
「いや……何つーか、さ……」
「……?」
「似てる、って思ったんだよ」
「……え?」
タクヤはぎくりと身体を強張らせる。
(もしかして、気付いたのか……!?)
母が大事に隠し持っていた名刺。その名刺の主がタクヤの父親であるという仮説が正しければ、この人はタクヤの叔父になる。
母方には誰もいない、透き通るような明るい光彩。
自分ととても似通っているその瞳に見つめられ、タクヤはごくりと唾を飲み込む。
「似てるなぁ、やっぱり」
「……誰に、ですか」
「誰って、そりゃ――」
埜口はテーブルに片肘を突き、ずい、と身体を近寄せてくる。
タクヤは若干体を引きながら、彼の言葉を待った。
「やっぱ似てるな、あの日の……先生に」
「……は?」
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