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「……」
埜口はさっきまでの軽口もおちゃらけた雰囲気も消し去ると、じっと自らの左手に視線を移した。
タクヤの話題を逸らす作戦は功を奏した。でも。
(やっぱり、聞かなきゃよかったかな)
タクヤの目の前で、辛そうな声を上げスマホを取り落とした埜口。それなのに、彼はそのことがまるで無かったかのように振る舞っていた。それだけ、彼にとっては隠しておきたいこと、だったのだろう。
タクヤは俯いている男から目を逸らした。
「すみません、余計なことを聞いてしまって。忘れてください」
タクヤは席を立とうと椅子を引く。
タクヤに謝りたいという埜口の目的は達成されたわけだし、これ以上ここにいても、今みたいな気まずい空気が続くだけだろう。
タクヤは「すみません」ともう一度謝ると、テーブルに背を向ける。
……が、一歩踏み出そうとした、その瞬間。
「待ってくれ」
男の低い声に呼び止められる。
タクヤが振り返ると、埜口は顔を俯けたまま、グラスを握りしめていた。
「……埜口さん」
「……」
彼は口を引き結んでいる。
タクヤは黙って、彼の次の言葉を待った。
それからしばらくして。
「悪いね、気を遣わせて」
埜口はそう呟くと、ゆっくりと顔を上げる。
タクヤは首を振った。
「今までずっと、無駄に秘密にしてきたからかな……いざ喋ろうって思うと、妙にこう、改まってしまってね」
埜口はグラスから外した手を、もう一方の手――さっきスマホを取り落とした方の手にそっと宛がう。
おそらく彼の利き手であろうその手は、よく見ると、少し震えているようだった。
「少し、昔話に付き合ってもらえるかい?」
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