Leave it to you!

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タクヤはもう一度、椅子に深く腰掛ける。 埜口はグラスの底を軽く振ると、ゆっくりと口を開いた。 「君があの店に来て、それから一年後ぐらいかな。俺はあそこを辞めて、自分の店を持ったんだよ」 「自分の店……? あの店は埜口さんの店じゃ無かったんですか」 「確かにあの店で俺は店長はやってたけど、所詮は雇われ店長でさ。色々と面倒なことも多くてね」 「ああ……それ、分かります」 「なに、君もやってたんだ?」 「ええ、まぁ。でも、結局すぐに辞めちゃいましたけどね」 「それが正解だよ。だって、俺が店長してた時なんてさ――」 横道にそれる埜口の話。でも、タクヤはそれを止めることはしなかった。 と、いうより……タクヤ自身、その話を楽しんでしまっていた。 今まで競争相手はいても、美容師の横の繋がりというものは無いに等しかった。話し相手と言ったら自分のスタッフのみ。当然、話せる中身も限られてくる。だから、こうして経営者としての苦労を語り合えるというのは新鮮なことだったのだ。 そうして、タクヤが夢中になり、当初の目的を忘れかかった辺りで。 「……って、ごめんごめん。その話じゃなかったな」 埜口が眉を下げて笑う。 「久しぶりだったからかな? 盛り上がりすぎちゃってね。申し訳ない」 「い、いえ……」 「楽しかったし、それに……懐かしくってね」 埜口の目が柔らかく細められる。 タクヤはどんな相槌をしたらいいか分からず、目の前の汗をかいたグラスの中身を啜ったのだった。 「俺の店は、前の店に比べたらだいぶこぢんまりとした感じでね。スタッフは俺含め3人、向こうの店から付いてきてくれた、変わり者たちばかりでさ」 そう言いながらも、埜口の口調もその目も優しい。 タクヤはふと、自分の所のスタッフと、先日去っていった彼のことを思い出していた。 「最初はさ、前の店の客が来てくれるぐらいでなかなか軌道に乗らなかったんだけどね。そんな店が何とか耐えれたのは、あいつらがいたお陰だったよ」 「そうだったんですね」 「ああ。変わり者だけど……精鋭たちでもあったからね」 誇らしげに埜口は語る。その顔を、タクヤはじっと見つめた。 タクヤが美容師の道を進もうと思ったのは、それが非常に身近だったからというのもあったが……だが、最後の一押しになったのは、あの夜、埜口に髪を切ってもらったことだった。 髪を切る、ただそれだけで、ここまで人の印象を変えることができる――彼の技術は、タクヤに大きすぎるインパクトを与えた。 その彼にここまで言ってもらえる「精鋭たち」が、タクヤには酷く羨ましく映った。 「で、低空飛行の店だったのが、俺がまたコンペで賞をもらったのと、諒……ええと、スタッフの一人が雑誌に載っけた髪型がめちゃくちゃ評判良くってね。それでガンっと売り上げが伸びて、そこからは調子を落とすこともほぼなく、いい感じで何年か、やってきたんだけど――」 埜口はそこで言葉を切ると、視線を手元――グラスを持っていない方の手へと移した。 「ある日、突然ね……動かなくなったんだよ、こいつがさ」
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