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思わぬ台詞に、タクヤは埜口の顔をまじまじと見つめる。
彼はにやりと口角を上げた。
「先生はさ、残念ながら振られちゃったみたいだけど……」
「……」
またあの話か、とタクヤは複雑な顔をしてしまう。
自分を想ってくれていた先生の気持ち。それはどうしようもないほど嬉しいものだった。
でも……その事実を知ることは、同じくらい苦しいことでもあった。自分の罪を改めて突き付けられているような、そんな気がしてならなかった。
唇をぎゅっと閉じ、視線を落とすタクヤ。
埜口はその様子を見やりつつも、話を止めはしなかった。
「でもきっと、そうやってたくさん悩んで、自分自身と向き合って、本気で恋愛、してたんだよな。そんな先生がさ……カッコいいなって思ったんだよ」
「……っ」
タクヤはバッと顔を上げると、埜口を見つめた。
彼は小さく笑い、眉を下げる。
「で、一方の俺は何してたかって言えば……ひたすら過去から逃げ続けていたってわけでさ。カッコ悪いにも程があるよな」
「い、いや――」
そんなことは無い、とタクヤは言いたかった。
利き手の自由を失った彼の苦しみは、同じ美容師であるタクヤでさえ計り知れない。だからこそ、過去を直視できなかったことは、決して彼の弱さなどではないと伝えたかった。
でも、タクヤは結局、開きかかった唇をゆっくりと閉ざした。
埜口が僅かに首を振る。そして、タクヤをまっすぐに見つめ返した。
「自分のしでかしたこと、掛けてきた迷惑とか、そういうものに今度こそ、ちゃんと向き合いたい。ずっと止まったままだったものを進めて、一度ゼロになって……そうして初めて、新しい人生が始まる、そんな気がするんだよ」
埜口の淡い色の目が、夕焼けの最後の一筋にきらりと輝く。
そこにはもう、迷いの色は一つも無かった。
「……に、してもさ」
「何ですか?」
「なんか、不思議だなって思って」
埜口はそう呟くと、タクヤの目を覗き込む。
「な、何ですか……?」
「いや……似てると思ったんだよ」
「だからもうその話は――」
やめてください、そう言うより先に。
「君のその目――兄貴にそっくりなんだよな」
「……!!」
タクヤは弾かれたように仰け反り、その瞬間に椅子が派手な音を立てる。
それ以上に大きな声が閑散とした店内に響き渡った。
「な、な……っ!? 何ですか、急に……」
「って、急にこんなこと言われてもって感じか」
焦るタクヤに対して、何も知らない埜口はケロッとしたもので。
「そもそも、知らない誰かに似ているって言われても困るだけだよなぁ」
そう付け足すと、ふふ、と笑った。
「でも、だからかな。何だか妙に懐かしい気分になっちゃってね……あれやこれや、喋りすぎちゃったな」
「……」
「でも、楽しかったよ」
「埜口さん……」
「ま、俺が一方的に喋ってただけだったけどね。でも、聞いてもらえて、スッキリした」
埜口は柔らかく目を細める。
そして、「行こうか」とゆっくりと席を立った。
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