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空はほとんど夜の色に染まっている。それでも、日中の熱さは街に充満していて、タクヤの肌をさわさわと撫でていった。
次第に近付く、慧の事務所。
まだいるのだろう、明かりの消えないそこを見るたび、足が止まりそうになる。
やっぱり今日は埜口さんが行けばよかったんだ――せっかく譲ってくれた彼に対してそんな愚痴を胸の中で零す。
「だから、今日は君が行くべきだって!」
店を出た埜口は頑として譲らなかった。
「言ったろ、俺は無職で、毎日が月曜日状態なのよ。ってことは今日じゃなくたってチャンスはいっぱいなわけ。でしょ?」
「いや、でも……」
「じゃあなに、もしかして俺が心変わりするとか思ってたりする?」
「いや……」
「絶対ないない! だってさっき、君の前であそこまで決意表明しただろ? 今まで散々口八丁でごまかしてきた俺だけど、流石にそんなダサいことはしないって!」
「……」
「君こそ、今日を逃したらまた、心変わりしちゃうんじゃないの?」
「……っ」
「ほら、そういう顔してる」
「……してません」
「してるって!」
そんなやりとりを繰り返した後。
埜口は「あっ、彼女から連絡来たから帰るわ!」と叫ぶと、くるりと踵を返す。
「今度事務所で会ったら、仲直り、上手くいったか聞かせてな!」
そんな駄目押しな台詞を残し、埜口は軽快な足取りで去っていったのだった。
「ハァ……」
深いため息が、人気のない路地に響く。
もう間もなくで、先生の事務所に着いてしまう。
(って、この時間まで明かりが付いてるってことは、何か深刻な相談にでも乗っているんじゃないのか?)
(いや……平日、忙しくて進まなかった仕事を必死で片付けているのかも)
(ってことは、今日じゃない方がやっぱりいいんじゃないか……?)
いつの間にか亀レベルにまで落ちたスピードで歩きながら、タクヤの脳裏を駆け巡るのはそんな「行けない理由」ばかり。
「また、改めて来ようかな」
誰に言い訳するでもなくそう口にする。
だが……亀の歩みで進んできたはずが、既に目の前には慧の法律事務所が入っているビルがそびえていた。
「……」
会いたくないなら、そのまま来た道を戻ればいい。
そう分かっているのに、タクヤはそれが出来なかった。
だからといって、ビルに入ることも出来ない。
(……あの女の人と、まだ一緒にいるのかも)
先生が自ら定めたルールを破ってまで、あえて一人で会っていた女性。
もし先生が、埜口のように過去を清算し、新たな自分を見つけたくて努力しているのだとしたら……自分はまるでお呼びでないどころか、完全なる邪魔者だ。
「やっぱり、今日は――」
最後の言い訳をしてビルに背を向けようとした、まさにその時だった。
古びたガラス戸の向こう、スーツ姿の大きな人影。
ギギ、という耳障りな音を立て、重い扉が内側からゆっくりと開いてゆく。
「あっ……」
思わず飛び出た声。
男が、こちらへ視線を向ける。
「タクヤ、さん」
懐かしい、低くてよく通る声。
「先生……」
入口の青白い蛍光灯が、二人の輪郭を浮かび上がらせる。
まるでその場所だけ時が止まったかのように、慧とタクヤはただひたすら、互いを見つめ合っていた。
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