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「……どうぞ」
「失礼、します……」
まるで初対面かのような言葉を交わし、タクヤは促されるまま、彼の事務所へと久々に足を踏み入れた。
(ああ、帰ったんだな、さっきの女は)
案内された応接室にも、開け放していたドアの先の事務室にも、他に人の気配はなく。タクヤはどことなくホッとした気持ちになった。
「っていうか先生」
「はい?」
「あの、さっき出掛けようとしていましたよね? 手に財布、持ってませんでした?」
「ああ、別にいいんです。ちょっと休憩がてら夕飯でもと思っただけですから」
「そうですか」
「はい」
「……」
「……」
会話が続かず、気まずい沈黙が流れる。
タクヤは膝の上で組んでいた手の汗をチノパンでこっそりと拭った。
……と、二人の視線がバチンとぶつかる。
「「あの……っ」」
応接室に響き渡る二人の声。
タクヤと慧は互いに「どうぞ」「いえ、そちらからどうぞ」「いえいえ、そちらからどうぞ」と譲り合う。
先に折れたのは慧だった。
「タクヤさん」
「はい」
久々に浴びる、先生の視線。
夜の空にも深い海にも見える、どこまでも引き込まれてしまいそうな、真っ黒な瞳。そこにはかつてのように、タクヤだけが映っていた。
「あの後――タクヤさんが去っていった後、ずっと考えていたんです……どうして、こんなことになってしまったのか、と」
慧の低い声。それがわずかに震えている。
彼の緊張が伝わってきて、タクヤは膝の上の手に力を籠めた。
「タクヤさんの話をよく聞かずに僕ばかり話したり、自分自身、出来るかも分からないことを偉そうに言ったりだとか……本当に至らない点ばかりだったと思います」
「いや、そんなことは――」
「でも」
慧の声に、タクヤは思わず口を噤む。
彼は視線をテーブルへと落とすと、静かに言葉を続けた。
「そもそもの原因は……僕が、酷い勘違いをしていた、ということです」
「……勘違い、ですか?」
「……はい」
「あなたが僕を、心から愛してくれている――そんな勘違いを」
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