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「あなたと会って、酒を酌み交わして、身体を重ねて……そうするたびに僕は、自分の中の欠けている部分が満たされていくようでした」
どこか遠くを眺めるような表情で、慧は独り言のように呟く。
「そして……いつの間にか、とうとう自分がまともな人間になったような、そんな気になってしまっていたのです。あなたに愛されるに足る、そんな人間に」
「この間、ここに兄が来まして」
「あ……あのお兄さん、ですか」
先生との初めてのデート、あのホテルのレストランでの出来事が蘇る。
彼は「覚えてくれていたんですね」と、少しきまり悪そうに頬を掻いた。
「兄は、彼らしいと言えば彼らしい、めちゃくちゃな提案をしては嵐のように去っていったのですが……その話の中で、父の名が出まして」
「あっ、あの……!」
慧の父――彼こそ、慧に消えないコンプレックスを植え付けた張本人ともいえる人だった。
今度はどんな言葉で先生を傷付けようとしたのだろうか。タクヤは険しい顔で慧を見やったが。
彼は既に視線をテーブルの上へと戻し……しかし、その顔はタクヤとは真逆の、どこかぼんやりとした顔をしていた。
「兄は言いました。父が、悩んでいるのだと。この僕にしたことを、酷く後悔しているのだ、と」
「えっ……」
信じられない話だった。
……だが次第に、ふつふつと怒りが沸いてくる。
あそこまで先生の人生に暗い影を落としておいて、今になって後悔しているだなんて。そんなの、虫が良いにも程がある――
「おかしいですよね」
タクヤの胸の内を読んだみたいに、慧はそう言って口角を上げる。
「僕だってそう思います。今更、何言っているんだ、とね。いくら父が悔やんだところで全てが無かったことにはならないというのに。それなのに……」
慧は目を伏せたまま、フッと小さく笑った。
「僕はそう言われて、一瞬、嬉しい、と……そう、思ってしまったんです」
もうこれ以上、彼に辛い告白をさせたくない。そんな彼を見ていたくない。
「先生……っ」
そう思って上げた声の続きを、慧はその目でそっと制した。
「タクヤさん」
改めて名前を呼ばれる。
タクヤは黙ったまま、彼の視線を受け止めた。
「僕は、自分が変わったと、そう思っていました。でも結局はこの通り、未だに父のことを過去にも出来ないでいる。こんな人間にタクヤさんが愛想を尽かしたというのなら、それは当然のことでしょう。……でも」
慧はそこで言葉を切ると、もう一度まっすぐに、タクヤの目を見つめ直した。
「それでもやはり、僕はあなたに、傍にいてほしい」
「傍にいて……僕が、僕自身を乗り越えられるよう、愛してほしいのです」
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