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誰もいない家はもうとっくに慣れてしまった。
階段を上がり、母の部屋に入る。そこを片付けていた時、何となくこれが最後の入院になる予感がしていたことを思い出した。綺麗に片付いた部屋は、それでもまだ母の匂いが色濃く残っている気がした。
がらがらとベランダに続く窓を開ける。
軋む床板を踏んでそこへと出ると、手すりに片腕を預ける。そして、ポケットから煙草を取り出した。
それを覚えてから色々な銘柄を試したが、正直これといったお気に入りは見つからなかった。
何度か買ったことのあるメンソール強めのそれを咥えると、いつものように安いライターで火を付ける。
ふう、と吐き出した息が、夕方なのに薄ら明るい灰色の空と混ざり合っていく。
いまだ舞い続ける雪が、タクヤの長い前髪に降り積もっていった。
胸の中がすっからかんになったような気分だった。が、やっぱり涙は出なかった。
苦しむ母をずっと見てきたから、というのもあるだろう。この数か月間の母は、昔の面影も無いほど苦しみ、時に錯乱し、見舞いに行く足が遠のきそうになることも一度ならずあった。
ようやく母は、死ぬことで、あのままならない身体から解放されたのだ。
でも、泣かなかったのはそれだけが理由じゃなかった。
自分の回りにはもう、味方は誰もいなくなってしまった。泣いたって、誰かが助けてくれるわけでもないのだ。
空しくなるだけなら、そんな無意味なことをしても仕方がなかった。
「……」
煙は静かに空へと昇っていく。雪は一向に止みそうもない。
タクヤは箱に残っていた煙草が空になるまで、ずっとその灰色の空間に佇んでいた。
「大丈夫ですか」
頭上から降ってくる、低くて震えた声。
その響きとは真逆に、彼の腕はしっかりとタクヤを抱きしめて離そうとはしなかった。
タクヤは慧の胸の中でこくりと頷くと、そっと彼の胸を押す。
彼は躊躇いながらも、恐る恐るタクヤから身体を離した。
「タクヤさん」
先生の大きな手のひらが頬へと伸ばされる。そして、濡れたそこを優しく拭われた。
その途端、せっかく堰き止めたはずのものがまた溢れそうになって、タクヤはぎゅっと目を瞑ってそれに耐える。
そして、何とか涙を引っ込めると、ゆっくりと顔を上げた。
「先生」
思った以上に、声が震える。
先生のことを笑えないな、そんなことを思いながら、こちらを不安げに見下ろす彼をまっすぐに見つめた。
「先生、俺……先生のこと、好きです」
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