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「これ、是非どうぞ、と」
先生が手に持っていたのは、紅白の饅頭と熨斗の巻かれたタオルだった。
「いつもお世話になっている一階の床屋さんの、開店二十周年の記念の品です。普段ならここは日曜がお休みなので明後日の火曜日に渡そうと思ったらしいんですが、通りの看板をしまおうと外に出たとき、明かりが点いているのに気が付いたらしくて。それで、一日置くことになるぐらいならと思っていらっしゃったそうです。もちろん、こうして記念の品をわざわざ届けてくださるなんて、とてもありがたい話ではあるのですが……その、まさかあんなタイミングとは……」
先生は言い訳がましく早口でまくし立てると、透明のパックに入ったそれをタクヤへと差し出した。
「へぇ、……」
さっきまでの死ぬほど甘い空気はどこかに消えてしまったが、意外とずっしりと重い二つの饅頭に、タクヤは懐かしい気持ちを覚えずにはいられなかった。
「どうかしましたか?」
「いや……昔こういうの、配ったことあったなって。って、実家の床屋の方で、ですけどね」
「やはり何かの記念に、ですか?」
「はい。確か、三十周年のときかな」
「それはすごいですね。地元の人たちに愛されていたんですね」
「であったなら、嬉しいですね」
祖父に祖母、そして母の元気な顔が蘇る。そして、来てくれるお客さんの笑い声も。
当時はまだ幼かったが、タクヤにとって確かにあのお店は誇りだった。
「……コーヒー、淹れてきますね」
ぼうっともの思いに耽っていると、そんな優しい声が降ってくる。タクヤに気を遣ったのだろう。
タクヤはつい頷こうとして……しかし、給湯室に向かおうとする先生のワイシャツを慌てて掴んだ。
「あの、タクヤさん?」
「これ、とっても美味しそうなんですけどね。でも……」
タクヤはきょとんとする男をちらりと見やり、そこでわざと言葉を切る。
そして。
「今は饅頭よりも、先生の方を食べたいなぁ、なんて」
そんな冗談めかしたオヤジくさい台詞で、さっきの続きを強請ったつもり、だったのだが。
「あの……先生?」
後ろを向いたまま、固まってしまった慧。
(あれ、もしかしてこれ、やっちゃった感じ?)
……と思っていたら。
彼は急にぐるりと身体の正面を変え、今度はタクヤの目の前に仁王立ちしてきた。
彼の陰にすっぽりと覆われながら、タクヤはその顔を仰ぎ見る。
眉根を寄せ唇を引き結び、婦女子なら怖がりかねない顔をした彼は、どうやらさっきの発言に引いている訳ではなさそうだった。
じゃあ、この表情は一体――
「タクヤさん」
「なっ、何でしょう……?」
突然低く呼ぶ声に、タクヤは引きつった顔でそう返したのだが。
慧は何も言わず、ただ大きくゆっくりと息を吸うと、その二倍ぐらいの時間をかけてそれを吐き出す。
そして、タクヤの目の前に、すっと右手を差し出した。
「あの、もし良かったら、来ませんか……僕の、家に」
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