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ビルの裏手にとめてある先生の車は、相変わらず一点の曇りもなく艶やかに街の灯りを反射させている。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
久々に乗る助手席。滑らかな革の感触も懐かしかった。
そういえば……と、あのとんでもない出会い方をした大雪の日を思い出す。全身びしょびしょに汚れた状態で、そのいかにも高級車なシートへと引き入れられ、タクヤの方が気が気じゃなかった。
エンジンを掛けると一気にメーターまわりが華やぐ。続いて浮かび上がるブランドのロゴ。近未来的で煌びやかなその演出に、初めこそ先生とのギャップを感じたものだが。今ではそれもまた先生らしいと思えてしまう。
「それじゃ、行きますね」
「はい」
車は滑らかに動き出す。
大通りに出て、慧がアクセルを踏み込む。すると、逆にぐっと沈むように安定する感触。そんなことすら懐かしく――しかし同時に、タクヤの緊張は否が応にも高まっていくのだった。
(するんだよな……今から、先生と)
何を当たり前のことを、とは思う。今までだってこうして何度も、先生の車でホテルへと向かったわけで。
でも今日は、そんな今までとは何もかもが違っていた。
隣の慧をちらりと見やる。
彼もまた、まっすぐ前だけ見つめ、ひと言も喋ろうとしない。
車内はいつもラジオが付けっぱなしにされていて、今日もまた、誰かのリクエストした知らない曲が軽快に流れていた。
鍵の開く音が、マンションの廊下にやけに大きくこだまする。
「どうぞ」
再び先生に促され、タクヤは小声で「お邪魔します」と言いながら中へと入った。
玄関はほとんど何もなく、モデルルームの方がまだ生活感があるのでは、と思えるぐらい、殺風景だった。
そんな中、唯一棚の上に置かれている小さな木の箱。おそらくルームフレグランスなのだろう、穏やかで落ち着いた香りが漂っている。
その中に溶け込む、彼の匂い。
(ああ、先生の家だ)
それは、タクヤをほっとさせる匂いでもあり、同時に――その身体に火を付ける匂いでもあった。
「先生」
彼を呼んだのは完全に無意識で、ただの独り言のような、そんな声量でしかなかった。
それなのに。
「タクヤさん」
ガチャンとドアが閉まる音。
その声に振り向くと、慧がじっとこちらを見つめていた。
慧の顔が、ゆっくりとタクヤへ近付いてくる。
タクヤはそっと目を瞑った。
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