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「ちょっと、どこ行ってたんですか先生」
「ええと、その、風呂を掃除していまして……」
「なんだ、そんなの気にしなくて良かったのに」
「いえ、ずいぶんと浴槽は使っていなかったもので……もうすぐ沸くでしょうから、どうぞゆっくりしてきてください」
そこまで立派なものではないですが。慧はそう付け足すと、持ってきたバスタオルなどをタクヤへと手渡す。
「あ、ありがとうございます。でも、あの」
「ん? 何ですか?」
「先生が先に入ってくれませんか」
「えっ、いや、タクヤさんからお先にどうぞ」
「いや、いいんです、先生からで」
「いやいやタクヤさんから……」
まるでコントな譲り合いだ。タクヤは思わずくすりとしてしまう。
「そういえばこんなやりとり、前にもしましたよね?」
「……?」
「そう、初めて先生と行ったあのラブホで、だったかな?」
「……あっ!」
カッと顔を赤くした慧に、タクヤはたまらずくすくすと笑ってしまった。
「ってことで、俺は色々しなきゃいけないことがあるので。先生、お先にどうぞ」
「あ……はい、すみません」
先生はぺこりと頭を下げると、いそいそとバスルームへと向かっていったのだった。
先生が風呂に入っている間にも諸々と準備を進めながら、タクヤはまた鼓動が早まっていくのを感じていた。
先生とはもう何度もしているというのに、どうして今になってこんなに緊張しているのか……その理由はとっくに分かっていた。
互いに想い合っている、そんな相手に抱かれる――それは、タクヤにとって実は生まれて初めてのことだったからだ。
ちなみに、タクヤの初体験は、例の煙草を教わった先輩とだった。
居酒屋のバイト先で出会ったその先輩は、確か三つほど年上の大学生で。面倒見のいい彼が、男もイケる人間だと知ったのはどんなきっかけだっただろう。バイトの帰り、「家に来る?」という彼の誘いに乗り、そのまま……という感じだったことは覚えている。
その後、少しの間身体の関係を続けたものの、母の死や進学などで慌ただしくなったタイミングでバイトを辞めてからは次第に疎遠になり、連絡を取ることもなくなったのだった。
そして、その後は恋愛らしい恋愛もせず、ただ欲求を満たせる相手と割り切った付き合いをする――そんな日々だった。
「はぁ……」
勝手にため息が零れてくる。
今まで、真剣に誰かを愛することから逃げてきた、そのツケをまた払わされている、ということなのか。
やっぱりさっき玄関で盛り上がったとき、その流れでなだれ込んでしまえばよかった。そうしていたなら改めてこんな現実に向き合うことなんて無かったのに……。
タクヤはもう一度、特大のため息を吐いたのだった。
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