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「先生、お帰りなさーい」
美晴の明るい声が事務所に響く。
「お帰りなさい、先生」
続いて、奈穂子の穏やかな声に出迎えられ、慧は「ただいまです」と二人に声を掛けながらデスクへと向かう。
今日は朝から他所の法律事務所での打ち合わせだった。司法修習生時代からの友人でもある所長の彼にその後昼食に連れ出され、あらゆる愚痴を聞かされ……仕事以上に疲れたな、と思いながらトレンチコートをハンガーに掛けた。
しばらくは夏の延長線上だった気温もようやく下がり始め、朝晩はだいぶ冷え込むようになった。ようやく季節通りの気候になってきたなと思う。
……と、同時に。
「……」
貰い物の卓上カレンダー、その無機質な数字を見やる。
(もうあれから、こんなに経ったのか……)
とうとう、タクヤの本当の恋人となれたあの夜。それ以降、彼との逢瀬は慧の家で、というのがお決まりのパターンになっていた。
タクヤは「ホテル代が浮くからいい」などと言っていたが……居酒屋やホテルでのどこか気を張ったような彼とは違う、くつろいだ表情の彼を見ることができる分、それはむしろ慧にとって嬉しいことだった。
そんな彼から、「先生、お話があります」と言われたのが、今からひと月以上前のこと――
「え、ええと……何でしょう」
その日、いつものように慧の車で帰宅し、それぞれシャワーで汗を流した二人は、遅い夕食の後ソファでまったりといちゃつきあっていた。
「ねぇ……先生、ここでするの?」
「……だめですか?」
「いや、まぁ、いいけど……うわっ!」
言質は取ったとばかりにそのままソファへとタクヤを組みしだいた慧は、満足するまで彼を貪った……はずだった。
……が、二人で風呂に入っているうちに、またもやそういう気分になってしまい、タクヤが見かねて付き合ってやってからの、ベッドでのその台詞だったのだ。
一体どんな恐ろしい言葉がくるのだろう。緊張した……いや、最早怯えた表情を見せる男に、タクヤはふふっと笑うと、目の前の頬をむに、と掴んだ。
「別に、さっきのことを責めようってワケじゃないですから」
「……すみません」
「ま、謝るぐらいならやらなきゃいいんですけどね?」
「……」
……正論過ぎて何も言えない。
「って、我慢できなかったでしょ?」
ごろんとこちらへ転がり、にっと口角を上げてこちらを覗き見る彼。
そんなことをされては、取り繕う余裕なんてすぐになくなってしまう。
「……はい」
素直過ぎる返事に、あははと屈託なく笑うタクヤ。慧もつられて笑顔になってしまう。
こんなに幸せなことがあっていいのだろうか――
「あっ、そうだ、忘れるところだった!」
「……」
……その声に現実に引き戻される。
「一応、報告しておきたくて」と前置きした彼は、真剣な面持ちで慧を見つめた。
「実は、ですね」
「……はい」
「今度……お店の2号店、オープンさせることになったんです」
「……! お、おめでとう、ございます!!」
「ありがとう、ございます……」
うわ、何か照れるな、とタクヤは少し赤くなった顔を布団で隠す。そんな仕草がまた可愛くて、胸だけでなく下半身まで熱くなってくる。まずいまずいと慌ててその邪念を振り払っていると。
「で、それに伴って、なんですが……」
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