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「まさか、埜口さんがまた美容師になったなんて。しかも、福祉美容師って言うんでしたっけ? ほんと、びっくりしましたよ」
埜口のカップを下げながら、美晴はしみじみとそう呟く。
「あんなに、もう二度と働きたくないとか言っていたのに、ですよ? まったく大丈夫なんですかね~?」
でも、その声はどことなく弾んでいるようだった。
「というか、福祉美容師って仕事、私知りませんでした」
「そうよね。でも、実は私の祖母もお世話になったことがあってね。お家に来てくれて、手際よく綺麗にしてもらって……鏡を見てすごく喜んでいたのを今でも覚えているわ」
「そっか、案外身近なものなんですねぇ」
「そうねぇ、これからますます需要あるでしょうね」
彼女らの会話を聞きながら、慧は埜口と二人きりで交わした玄関先での会話を思い出していた。
「埜口さん、今日はありがとうございました。しかもあのようなお土産まで頂いてしまって」
「それはこっちの台詞だよ。あんなに面倒で金にならない客だった俺を、最後まで見捨てないでくれたんだからさ」
「いや、そんな……」
「今、こうして新しい一歩を踏み出せたのも、みんな先生たちのお陰だよ」
そう言うと、埜口はすっと左手を慧の前に差し出した。
握手を求められているのだとは分かったが。
「あの、埜口さん、そういえば、その手……」
彼の人生を大きく狂わせた原因となった、その左手。
いくつもあった多額の不明使途の全てが『それ』に関することだったと明かされたときは、慧も彼女らも心底驚いたものだった。
そして……これでようやく先に進めるという安堵と共に、それほどまでに隠しておきたいことだったのかと、彼の表情が胸に痛かった。
「ああ、これね……」
埜口は自分の顔の前に左手をひらりと翳す。
かと思うと、その手を軽やかにグーチョキパーと動かして見せた。
「実はさ、少し前から病院に通い始めたんだよ」
「そうだったんですね」
「もちろん、治る病気じゃないけどさ。でも、ちゃんと医者に診てもらうことにして、薬も飲むようにしたら、前みたいにいきなりおかしくなるってことも無くなってきてね」
埜口は目を細めて自分の手を見つめていた。
「そうすると今度は、ああ自棄にならずに冷静になっていれば、違う未来もあったのかもなとか、思ったりもしたけどさ。……もう全部、終わったことなのにな」
「……」
「でも、そんな俺に声を掛けてくれた変わり者がいてね」
埜口は左手でチョキをつくると、ハサミのように動かした。
「昔、いっしょに店やってた奴なんだけどさ。久々に会った俺に、あいつ、何て言ったと思う? 『腐っても鯛ってことわざ、知ってますか』だとさ! ほんと昔っから失礼なんだよ、諒は」
そんな口調の割に、その表情は朗らかで。
埜口は手元に向けていた視線を再び慧へと戻した。
「でさ、結局……そいつの口車に乗ってやることにしたんだよ。だってさ、ただ腐らせとくにはもったいないだろ、俺」
埜口はそう言ってニヤリと口角を上げると、改めてその左手を差し出した。
「その調子なら、心配要らなそうですね」
「ま、期待しててよ、先生」
慧もまた同じような笑みを返すと、その手を柔らかく握り返した。
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