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「じゃあ先生、お元気で」
「埜口さんもお仕事頑張ってくださいね」
「もちろん!」
彼はぐっと親指を立てると、慧へと背を向けた。
その背は以前よりスッと伸びていて、彼が過去を乗り越え、新たな一歩を踏み出したことを表しているようだった。
「……」
「あ、そうだ先生!」
階段の方から再び聞こえてきた埜口の大きな声。
すぐこちらへと走り寄ってきた彼に、慧は慌てて意識を現実へと戻す。
「ひとつ、言い忘れたことがあってさ」
息を切らせた埜口は少しバツの悪そうな顔をすると、ぽりぽりと頭を掻いた。
「さっきのアレ、だけど……マジでヘンな意味じゃないからね」
「さっきのアレ……?」
「俺、言っただろ? 昔から知っているってやつ……タクヤくんのこと」
「……っ!」
「ちょっと先生のこと、からかってやるつもりだったんだけど……先生、結構ショック受けてたっぽかったからさ。きちんと訂正しないとって思ってね」
埜口はようやく落ち着いてきた呼吸を深呼吸でさらに正すと、固唾を飲んで言葉を待っている慧へと笑いかけた。
「彼ね、学生の頃に一度、ウチの店に来てくれたことがあってね。で、その時髪を切ってやった……って、ただそれだけのことだから」
「そう、だったんですね……」
あからさまにホッとした声が出てしまい、慧は咳ばらいをして誤魔化してはみたが。
埜口は何故か真面目な顔で、じっと慧の方を見つめていた。
「ねぇ、先生」
「はい、何ですか」
「あのさ……先生の好きな人って、タクヤくん、だろ?」
「えっ!」
廊下中に響き渡る大声を出してしまい、慧は咄嗟に口元を覆う。
「どうしてバレたんだ、って顔だよね」
埜口は片方の眉を器用に上げると、楽しそうにネタばらしを始めた。
「そういや前にさ、先生が好きな人、俺と同業って言ってただろ?」
「……!」
「まぁ、あの時は普通に女の人だって思ってたんだけどね。でも、この前たまたまタクヤくんに会ったときにさ……何だか、あのときの先生みたいな顔してるな、って思ったんだよ」
「あのとき……?」
「随分前にあっただろ? 先生が、初めてのデートでやらかして……ってガチで凹んでたときよ」
「ああ、あれ、ですか……」
慧は僅かに苦々しい顔をする。
思わぬ形で彼にまで知られてしまった失敗。とはいえ、埜口のアドバイスのお陰で先に進むことが出来たは出来たのだが……正直あまり思い出したくない記憶だった。
埜口はそんな慧の様子にはあえて気付かないフリをして、にやにやとしながら話を続けた。
「そう、あのときの先生の顔っていったら、ザ・恋に悩む男の顔って感じでさ。そんな顔を見せられちゃあ、ねぇ……しかも、タクヤくんまでついこの間失恋したばかりと来ちゃったらさぁ……これ、もしかしたら、って思っちゃうじゃない? で、試しにああ言ってみたってワケよ」
「……」
……つまり、まんまと彼の策に嵌ったということか。
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