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「はぁ……」
白い息が夜空へと吸い込まれていく。ベンチは氷のように冷たく、座ったところから体温が吸い取られてしまいそうだった。
近くのコンビニで買ったペットボトルのカフェラテを両手で包む。
そこまで熱くも無いそれでも、この寒空の下では十分カイロ的な役割は果たしてくれた。
そういえば、前にも同じようにどこかの公園で、こうしてボーっとしたことがあった。
あの時は確か、例の銀行マンに連れられて飲んだ日の帰りで。
べろべろに酔っぱらった男と迎えに来たそいつの彼氏を見送った後、同じように一人、月を眺めた気がする。
今ほど寒くも無い夜だった。
でも、芯まで冷えそうな今夜の方が、不思議と胸の中だけは温かい。
いや、不思議と……だなんて。理由は分かっている。
先生との関係が、あの頃とは違う。
彼はもう、こちらから手を離さなければいけない人ではなくなったのだ。
「先生」
彼を呼ぶと、また白い息が夜空へと散っていく。
「……慧」
今度は彼の名前を口にする。
彼は「恥ずかしいからあまり呼ばないでください」と言っているが、その割に身体の方は素直に反応するものだから、彼のお願いは度々無視されるのだった。
中天に掛かる満月。
雲一つない空に浮かぶそれが放つ、冴え冴えとした光――
「母さん」
「ん、どうしたの」
「どうして月の光って、ぜんぜんあったかくないのかな」
記憶の底に沈んでいた、幼いある日の出来事。
お店を閉めた後、近所のスーパーへ買い物に行くのは母の仕事で、タクヤはよくそれに付いていったものだった。
その夜も今日みたいに冷える日で。いつものように手早く必要なものを買いそろえると、蛍の光を聞きながら店を出た。
母の柔らかくて温かい手を握り、家までの短い散歩をする。それがタクヤのささやかな楽しみだった。
タクヤの冒頭の質問に、母は特に子供だましのようなことは言わなかった。
「それはね、太陽の光を反射しているだけだからよ」
「……ふうん?」
まだ小さかったタクヤは、分かったような分かってないような気分でそう答えたが。
そんなタクヤに、母はにっこりと微笑みかけた。
「でも、母さんは太陽よりも月が好きかな」
「えっ、どうして?」
「だって、ずっと見ていられるじゃない」
太陽だとこうもいかないもんね、と続けた母は、その視線を真上へと向けた。
「……」
タクヤもつられるように空を見上げる。
欠けたところのないまん丸い月は、温かそうでちっとも温かくない、そんな光を夜空に放っていた。
「まぁ、そうだけどさ……」
納得できない様子のタクヤに、母はくすくすと笑った。
「あんたにはまだ、この良さが分からないでしょうね」
「……わかるもん」
「いや、分かってる顔じゃないね」
「わかるもん……そのうち」
「何よ、そのうちって!」
とうとうアハハと声を上げ出した母に、タクヤはムッとして黙り込む。
それでも、つないだ手を離すことはなく、慣れた夜道を二人で並んで帰ったのだった。
「……」
タクヤはもう一度、夜空を見上げる。
この世界を静かに照らす、月の光。
『だって、ずっと見ていられるじゃない』
そんな母の言葉が今、ようやく腹に落ちた気がする。
でも――
「先生が、傍にいてくれたら、だけどな」
呟いた声が、また白い雲になって空へ消えていく。
今、無性に先生に会いたかった。
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